Anita Pallenberg with Mick Jagger in 'Performance' (1970)
サイトThe Hollywood Reporterなどによれば、
ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)の2人、
ブライアン・ジョーンズ(Brian Jones)と
キース・リチャーズ(Keith Richards)の元恋人で、女優/モデルとして活躍したアニタ・パレンバーグ(Anita Pallenberg)が6月13日に死去。画家・映画監督ジュリアン・シュナーベルの娘で、女優のステラ・シュナーベルが訃報を伝えています。死因は明らかにされていません。73歳でした
バイオグラフィー(
wikipediaより)
ルター派の両親をもち、学生時代はドイツの寄宿学校に入れられる。古典を読み漁るなど早熟な子どもだったが野山で遊ぶのが好きで学校にあまり行かず、退学になる。大学受験を断念してミュンヘンのアートスクールに通いグラフィック・デザインを勉強。また、英語・ドイツ語・イタリア語を話し、劇団の女優として美貌と才気を放つ。1963年、ニューヨークへ渡り、ファッション誌のイタリア人カメラマンのアシスタントを務める。その関係からヨーロッパ各国でモデルの仕事を始めるようになり、『ヴォーグ』の表紙などを飾った。
映画女優としても活躍しており、1967年、独映画『Mord und Totschlag(英題:A Degree Of Murder)』(フォルカー・シュレンドルフ監督、ブライアン・ジョーンズ音楽)で主演してカンヌ映画祭に招かれたほか、同時期にジェーン・フォンダ主演の『バーバレラ』(黒の女王役)、エヴァ・オーリン主演の『Candy』(看護婦役)、ミック・ジャガー出演の『パフォーマンス』(ミック・ジャガー演じるロックスターの愛人役)など、カルト名作と言われる作品にハマリ役で出演し異彩を放っている。
1965年、ローリング・ストーンズのミュンヘン公演の楽屋を訪ね、バンドリーダーであったブライアン・ジョーンズと知り合い、華やかな交際を始める。瓜二つのカップルとして有名になるも、ブライアンの誇大妄想狂と暴力的振る舞いに耐えかね、1967年より、同じくストーンズのギタリストであるキース・リチャーズと付き合うようになる[1](以降、アニタの影響を強く受けたキースのファッションは、目のまわりにアイラインを入れたり、彼女の服やスカーフを随所に取り入れるなど、野性的ながら退廃的な空気を漂わせたものに変化した)。 1960年代当時ミック・ジャガーの恋人だったマリアンヌ・フェイスフルとともに、「ストーンズの女」として名を馳せる。
ブライアンと国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)制服姿のカップル写真を撮ったり、ドラッグや黒魔術、レズビアン[2]を含めた奔放な性生活など、スキャンダラスな話題を振り撒きながらも、イエスマンが取り巻く中、明晰で機知の効いた提言でメンバーと対等に話ができ、当時のストーンズの音楽や悪魔的イメージの発展に影響を与え、6人目のメンバーとも言われるほどに重要な存在だった。 なお、ストーンズの「ホンキー・トンク・ウィメン」「無情の世界」という曲は、彼女との共作という[3]。
キースとは正式な結婚は結ばなかったが、長らく夫婦同然に生活をともにし、二人の間には長男マーロン(1969年生まれ)と次女ダンデライオン(1972年生まれ。後にアンジェラと改名)、次男タラ(1976年生まれ。生後二ヶ月余りで死亡)をもうけている。
1970年代にはキースと共に重度の麻薬中毒に陥り、療養・中毒を繰り返し、心身ともに崩壊してゆき、1979年、キースの自宅でアニタが連れ込んだ17歳の少年が、アニタの目の前で拳銃自殺をした事件を境に、キースと破局を迎えた。
1980年代には麻薬中毒から立ち直り、ファッションデザイナーとしての活動も行っており、1990年代にはアナスイ、ヴィヴィアン・ウエストウッドなどのショーに特別出演し話題になった。
現在はアメリカの市民権を取得している。