
The Power Station / The Power Station (deluxe edition 4CD set)
ロバート・パーマー(Robert Palmer)、
デュラン・デュラン(Duran Duran)の
アンディ・テイラー(Andy Taylor)と
ジョン・テイラー(John Taylor)、
シック(Chic)の
トニー・トンプソン(Tony Thompson)が結成したスーパーグループ、
パワー・ステーション(The Power Station)。デビューアルバム『The Power Station』の発売40周年を記念した40thアニヴァーサリー・エディションのリリースにあわせ、ジョン・テイラーは米Varietyの新しいインタビューの中で、バンドの誕生から成功、終わりまでを振り返っています。
「(デュラン・デュラン)『Seven and the Ragged Tiger』の後はさ、バンド的にも、精神的にも……。あのアルバムの制作は本当に大変だった。大ヒット(1982年の『Rio』)を超えなきゃいけなかったし、音楽的な成長も示さなきゃならなかったからね。(デュラン・マニアの熱狂を思い返しながら)僕らは大規模で長期にわたるアリーナツアーをやって、あらゆることが狂騒状態になった。国際的な規模で、あれほどの集団的熱狂にさらされたのは、あれが初めてだったと思う。正直言って、ツアー終了時には、控えめに言っても、疲れ果てていたよ」
1984年、ツアー終了後にデュラン・デュランは休養を決断しますが、離れている間も仕事と休暇を兼ねた活動を行うことにしました。この「分岐点」がもたらした結果が、パワー・ステーションであり、アーケイディア(サイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、ロジャー・テイラーによるプロジェクト)でした。
「デュラン・デュランの内部では、すべてが変わりつつあった。当時のデュラン・デュランの心理的な状況はかなり複雑だった。全員が初めて大金を手にし、結婚したメンバーもいれば、休養期間中に外部との関係を深めていった人もいた。特にトニーとロバートとの関係が顕著だったね。アンディと僕は、他のメンバーから少し距離を取るようになった。まるで『テルマ&ルイーズ』みたいに、夕日に向かって走り去っていったってわけさ。それに、あの二人がすぐそばにいたから、アンディと僕は何かをやらずにいられなかったんだ。
(当時)トニーは(デヴィッド・ボウイの)“Let’s Dance”やマドンナの“Like a Virgin”にも参加していた、彼のドラミング・スタイルはダンスフロアを沸かせるものだった。彼こそがパワー・ステーションの“真のスター”であり、あらゆるサウンドは彼を土台に築かれていったんだ」
まだ名前がついていないパワー・ステーション・プロジェクトの始まりを告げたのは、デュラン・デュランとは無関係の関係がきっかけでした。当時ジョン・テイラーの恋人だった、モデルでプレイボーイのプレイメイト、ビービー・ビュエルの強い要望で、ジョンは1971年の「Get It On」のカヴァーで彼女のバックを務めることになりました。
「デュランのツアー終盤に彼女と付き合っていた。彼女は当時(1981年)すでにレコードを出していたアーティストで、彼女と何かを制作するのは楽しそうだと思ったんだ。(当時の所属レーベルであるEMIにサポートを求めると)彼らが“ノー”と言うはずもなく、スタジオ時間を確保してアイデアを練る許可を得たんだよ。でもそのうち彼女と僕は仲違いしてしまって。でも、その時にはもう歯車は回っていたから、アンディと僕は、もう手綱をしっかり握って前に進むしかなかったんだ……。アンディ、トニー、そして俺がリズムセクションを担う予定だった」
ジョンの頭の中には、そのトリオがさまざまなヴォーカリストを支える構想があったという。しかし、多くの歌い手が集うはずだったパワー・ステーション・プロジェクトの構想は、友人のロバート・パーマーがスタジオに顔を出したことで、大きく変わりました。
「ロバートがスタジオに来て、“Communication”を歌い、それから“Get It On”も誘った。その曲を彼が歌い終えた瞬間、バーナードがこう言ったんだ。“もう他のヴォーカリストを探す必要はない。ロバートこそ、このプロジェクトに完璧なシンガーだ”。その瞬間、このプロジェクトの本質が変わったんだよ。ロバートは、とても器用な声を持っていて、歌詞のセンスも抜群だった。
(パワー・ステーションの構想されたものではなく)僕たちには計画なんてなかった……ちゃんと考えていたわけではない。アンディと僕は、新たなバンドを始めるつもりなんてなかった。ただトニーとバーナードと一緒にクールな音楽を作りたかっただけなんだ。でも、気がついたら、まったく別のグループができあがっていた。マジかよ、って感じだろ? でもロバートが加わると、全てが信じられないほど素晴らしい音になったんだ」
パワー・ステーションは当時のデュラン・デュランが抱えていた状態に対する「解毒剤」のような存在になったという。当時のデュラン・デュランは、やることなすことすべてが重要で、入念に計画され、どこか細かすぎるほどでした。
「まったく重要じゃないことをやれるのが心地よかったんだ。実際のところ、あれは結婚生活の合間の不倫みたいなものだった。そして、その関係が長く続かないことも分かっていた。僕らは電光石火のように集まり、何か風変わりなものをやってのける──そういう運命の存在だったんだ。
これらの曲の成功は、完全に予想外だった。結果を予想できた人なんて誰もいなかったし、作っていた僕ら自身もそうだった。このプロジェクトを突き動かしていたのは、ただぶっ放したい、ロックしたいという衝動だけ。作為的なものは一切なかった。すべては本当に型破りな形で始まったんだよ」
パーマーはツアーには参加せず、パワー・ステーションから離脱しました。テイラーはパーマーに対して、今は怒りを抱いていないという。
「当時、アイランドは、僕たちのアルバムの直後に新作を出せってことで、彼に巨額のオファーを出したんだよ。
ロバートと一緒にアルバムを作れただけでも、僕たちは十分すぎるほども幸運だった。彼は偉大なアーティストで、素晴らしいコラボレーターだし、ロックの殿堂に入るべき人なんだ。ロバートはスタジオに入ってきて、ネクタイを緩めると、あとはもう自由自在。すべてをいとも簡単にやってのけてしまうんだよ」
テイラーは、すでに決まっていた1985年のツアーやライヴ・エイド出演が目前に迫ったとき、パーマーの代役としてツアーに参加したシルヴァーヘッドの
マイケル・デ・バレス(Michael Des Barres)が、見事に窮地を救ってくれたことにも触れています。
「そもそもこのバンドは、最初から複数のヴォーカリストを想定して始まったんだから、別に問題ないさ(笑)。とはいえ、ツアーにはシンガーが必要だったわけでね。だからマイケルには本当に感謝しているよ。
彼は素晴らしいシンガーでありながら、大成功していてもおかしくなかった2つのバンド、シルヴァーヘッドやディテクティヴで結果を出せなかった。でも、彼が時代遅れだったわけじゃない。直前にはアニモーションの“Obsession”を書いて大ヒットさせていたし、勢いもあった。僕たちは、テキサスの映画の撮影現場でドン・ジョンソンと一緒にいたマイケルを見つけて、ニューヨークに呼び寄せた。彼がマイクの前に立った瞬間、こいつは分かってる、とすぐに確信したよ。マイケルは完璧だった。彼は飛び込んできて、それを完全に受け入れてくれたんだ」
ジョンは最後にこう話しています。
「スーパーグループという発想自体が、パンク・ロックとは正反対だよね?(笑)。パワー・ステーションは、型破りなプロジェクトとして始まって、勢いを得て、より正統派で、より型にはまったものになっていった。1985年のツアーが終わる頃には、僕は気づいたんだ。パワー・ステーションを始めたのは、型にはまるためでも、別のバンドを持つためでもなかったってね。だって俺には、最初から最高のバンドがあったんだから。――デュラン・デュランというね」