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ポール・マッカートニー 回想録で69年の死亡説を回想 「あの噂は案外的を射ていたのかもしれない。いろいろな意味で、僕は死んでいた」

2025/11/04 10:35掲載
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Paul McCartney: Man on the Run (Credit: Linda McCartney)
Paul McCartney: Man on the Run (Credit: Linda McCartney)
ポール・マッカートニー(Paul McCartney)は新しい回想録『Wings: The Story of a Band on the Run』の中で、1969年の死亡説を振り返っています。「あの噂は案外的を射ていたのかもしれない。いろいろな意味で、僕は死んでいた」

1969年、ポールは法的な問題や個人的な争いの渦中にいて苦しんでいました。ポールは、自身の家族がスコットランドの人里離れた農場に逃げたことで、ビートルズ(The Beatles)から前に進む助けになったと振り返っています。英ガーディアン紙で抜粋が公開されています。

「ビートルズが解散しようとしていたまさにその頃、奇妙な噂が広まり始めた。僕が死んだという噂だ。そんな話はずっと前から耳にしていたが、1969年の秋、アメリカのDJが煽ったことで、その噂は突如として独自の力を持つようになり、世界中の何百万もの人が僕が本当に死んだと信じてしまった。

ある時、僕は新妻に尋ねた。“リンダ、どうしたら僕が死んでいるなんてことになるんだろう?”。彼女は、生まれたばかりの娘メアリーを抱きながら微笑んだ。僕と同じように、噂の力と、あの馬鹿げた新聞の見出しの不条理さをよく知っていた。ただ彼女は指摘した――僕たちがロンドンから急いで、はるか北のスコットランドの人里離れた農場へ移ったのは、まさにビートルズを貶めていたような悪意ある噂から逃れるためだったと。

あの本当にクレイジーな時代から半世紀以上が経った今、あの噂は当時思っていた以上に、案外的を射ていたのかもしれないと思い始めている。いろいろな意味で、僕は死んでいた……27歳の、まさに元ビートルズになろうとしていた僕は、法的な争いや個人的な争いの渦にのみ込まれ、精気を吸い取られ、人生を丸ごと立て直す必要に迫られていた。あの素晴らしい10年から、果たして自分は前に進めるのだろうか、と自問自答していた。毎日のように襲い掛かってくるような危機を乗り越えられるのだろうか、と。

その3年前、僕は会計士の勧めで、このスコットランドの羊牧場を購入した。当時の僕はあまり気乗りしておらず、土地は荒涼として荒々しく見えた。しかし、ビジネス上の問題に疲れ果て、家族を育てるにしても、ロンドンのような監視の目が光る場所ではできないと悟った僕たちは顔を見合わせ、“逃げてしまおう”と言い合ったんだ。

振り返ってみると、僕たちはこの荒々しい冒険のためにまったく準備ができていなかった。知らないことがあまりに多かった。リンダは、後に有名な料理本を書くことになるけれど、最初のうちは―僕が生き証人だ―決して料理上手ではなかった。僕も田舎暮らしに向いているとは言いがたかった。リバプールに残っていた父のジムは、庭の手入れの仕方や音楽への愛し方など多くのことを教えてくれたが、コンクリート床の施工は教わっていなかった。それでも、引き下がるつもりはなかった。町から職人を呼んで、セメントの混ぜ方、区画ごとに敷く方法、水を表面に浮かせるための突き固め方を教わった。地元の森からクリスマスツリーを切り倒すことも、新しいテーブルを作ることも、はしごを登って古い屋根にペンキを塗ることも、小さすぎる仕事も大きすぎる仕事もないと思えた。大きな挑戦は羊の毛刈りだった。ダンカンという男がいて、昔ながらの剪毛鋏の使い方や、羊を後ろ足で立たせるやり方を教えてくれた。彼の百頭に対して僕は十頭しか刈れなかったけれど、日が暮れるころには二人ともへとへになっていた。

こうしたことを一つひとつ覚え、きちんとやり遂げ、自立していくことに大きな満足を覚えた。今にして思えば、あの孤立した環境こそが僕たちにとって必要なものだった。厳しい環境にもかかわらず、スコットランドの地は僕に創作の時間を与えてくれた。僕たちの身近な人たちには、何かエキサイティングなことが起きつつあることがはっきりと分かり始めていた。かつてのポールは、もはや新しいポールではなかった。何年ぶりかに自由を感じ、突然、自分の人生を自ら導き、方向づけ始めたのだと実感したんだ」