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レッド・ツェッペリンが米ローリングストーン誌を嫌うなか、当時17歳のキャメロン・クロウはどうやって同誌用のインタビューを成功させたのか?本人語る

2025/10/14 14:36掲載
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Cameron Crowe (left) with Jimmy Page on Led Zeppelin’s plane Starship in 1973. Photograph: Neal Preston
Cameron Crowe (left) with Jimmy Page on Led Zeppelin’s plane Starship in 1973. Photograph: Neal Preston
レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)が米ローリング・ストーン誌を嫌っていたのは有名な話。緊張緩和に貢献したのは、後に映画監督・脚本家として成功するキャメロン・クロウ(Cameron Crowe)でした。1975年、当時17歳だったクロウは、同誌のためにレッド・ツェッペリンの表紙&インタビューを任されましたが、当初ジミー・ペイジ(Jimmy Page)は取材を拒否していました。どう成功させたのか? クロウは新しい回顧録『The Uncool』(海外:10月28日発売)の中で振り返っており、その抜粋が英ガーディアン紙のサイトで公開されています。

同誌はツェッペリンのファーストアルバムを酷評しましたが、クロウはロサンゼルス・タイムズ紙のためにツェッペリンを取材したことがありました。その2年後の1975年、バンドの広報担当であり、彼らが立ち上げたレーベル、スワン・ソングの幹部でもあったダニー・ゴールドバーグから、ツアーに同行することが許可されました。

ローリング・ストーン誌の表紙にツェッペリンを載せる鍵は、常にジミー・ペイジにかかっていました。クロウの作戦は、まず他のメンバーにインタビューし、それでもペイジが拒否すれば、ロバート・プラントが一人で表紙を飾るというものでした。

クロウは当時、サンディエゴ・シティ・カレッジの学生でしたが、大学の授業にはほとんど出席できずにいたという。しかし、ジャーナリズムの先生をなんとか説得して、ツェッペリンのツアー同行を授業の単位として認めてもらうことには成功していました。

プラントのインタビューは予定通り行われました。しかし、公演が次々と行われると、ペイジは友好的だが距離を置き始めたという。その後、ペイジはクロウを無視し始め、その翌晩には、ペイジはクロウを完全に無視するようになりました。これは、ペイジは自分以外の全員が、ローリング・ストーン誌の記事のためにクロウに話したことに気づいたからだとクロウは回想しています。この時点で、クロウはツェッペリンのツアーに10日間以上も同行をしていました。

クロウはカンザス州の上空のどこかを、彼らの飛行機・スターシップに乗って移動している時、思い切ってペイジに直接話しかけました。

以下、抜粋より

「“なんで俺が(受けなきゃいけないんだ)?”。彼は即座に反論した。“俺があの雑誌を必要としていた時、奴らは酷評したんだ”。彼はその酷評からいくつかの形容詞を繰り返した。“今は奴らは俺を必要としているが、俺は奴らを必要としていない。なんで俺が? (ローリング・ストーン誌の創設者)ジャン・ウェナーのために? 絶対にありえない”

“僕はジャン・ウェナーじゃありません”と僕は続けた。“僕はバンドを信じている。ファンのためにすべてを話させてください”。計画を説明すればするほど、彼にとって僕は裏切り者のように映った。だけど、彼はまだ耳を傾けてくれていたので、僕は話し続けた。彼がシリアルを作ったとき、彼を追い、座った後も話し続けた。

“これはファンに直接語りかけるチャンスなのです。僕は雑誌には一言たりとも手を加えさせません”。僕は愚かにも話し続けた。“それに悪いレビューに関しては、僕からはこう言っておきます。もし僕がローリング・ストーン誌の高評価だけを頼りにレコードを買っていたら、知り合いの中で最悪のレコード・コレクションになっていたでしょう”

これはペイジは気に入ったようだった。彼は鋭く、感心したように笑った。

“ジョー・ウォルシュが君を信用しているなら”と彼は、イーグルスのギタリスト兼シンガーソングライターについて言い、“俺もそうすべきだね”と続けた。自分の耳を疑った。“インタビューはニューヨークでやろう”と彼は言い、背を向けた。その横顔に、いたずらっぽい笑みが一瞬見えた。ほとんどあり得ない勝利をつかんだのか、それとも手の込んだ冗談の標的にされようとしているのか、判断がつかなかった。

インタビューはその夜遅くに予定された。僕はテープレコーダーを手に、エレベーターでペイジの部屋へ向かった。ドアを開けた彼はステージ衣装姿だった」

その後、ペイジは、これまで決して話したことのない、彼の子供時代について、そしてプラントやツアー、バンド、そして自分自身について、どのように感じているかについて、詳細を語り始めました。

記事は大急ぎで印刷に回され、その号はローリング・ストーン誌史上最大級のヒットの一つになったという。数週間後、ローリングストーン誌の編集者ベン・フォン=トーレスから箱が届き、その中には雑誌宛ての手紙がぎっしり詰まっていました。世界中のツェッペリン・ファンが手紙を送ってきていました。

「手紙のほとんどはインタビューに対する空想、質問、体験談、感謝の言葉で溢れていた。ローリング・ストーン誌はついにレッド・ツェッペリンに賭け、それに対する反響は、まさに“胸いっぱいの愛”そのものだった」