Quincy Jones, Nathan East
世界最高峰のベーシストと称される
ネイザン・イースト(Nathan East)。恩人の一人で、長年のコラボレーターだった
クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)との思い出を綴った追悼文をSNSで発表しています。
「僕がまだ十代の頃、半世紀以上も前のことだけど、キャノンボール・アダレイの紹介でクインシー・ジョーンズと知り合えたことは、若いミュージシャンだった僕に大きな影響を与えたことだった。あの日のことは忘れられない。ビリー・ディー・ウィリアムズがキャノンボールの奥さんのオルガ・ジェームズと一緒に訪ねてきて、たまたまクラレンス・アヴァントもそこにいた。当時僕が所属していたバンドのパワーがクインシーの自宅で演奏するという素晴らしい機会を得ることができた。プレッシャーはなかったよ! 驚いたことに、クインシーは僕たちの演奏を気に入り、プロデュースの可能性について話し合いを始めた。一緒に作るかもしれないアルバムを想像して、僕たちは有頂天になった。でもそれから約1年後、クインシーは脳動脈瘤を患った。恐ろしい試練だったけれど、幸いにも彼は困難を克服し、奇跡的に一命を取り留めた。僕たちのプロジェクトは実現しなかったが、その時はまだ、Qとの旅が始まったばかりだったことを知る由もなかった。
数年後、レコーディングのキャリアを追求するためにロサンゼルスに引っ越した後、クインシーからマイケル・ジャクソンのアルバム『Off the Wall』の制作を手伝わないかという電話をもらった。電話がかかってきたのは、ケニー・ロギンズとのツアーに行くために出発した翌日だったので、すでにしている約束を守るために彼の誘いを断らなければならなかった。ありがたいことに、クインシーは再び僕に連絡をくれ、今度はマイケル・ジャクソンのアルバム『Bad』の制作を手伝うことになった。その経験は忘れられないものだった。
クインシーのQ’s Jook Jointプロジェクトの仕事の話が来たとき、スタジオに入るとヴォーカルブースにサラ・ヴォーンがいた。クインシーはトークバックボタンを押して、彼女にコントロールルームにちょっと来てくれるよう優しく頼んだ。そして、僕が別の曲のベースパートを録音すること、そして10分ほどで済むことを説明していた。そのトラックは“Birdland”で、僕が演奏するのはジャコ・パストリアスの象徴的なベースラインだった。 またしてもプレッシャーなし!
ある晩、自宅の電話が鳴った。2回鳴った後に止まったので、上の階にいる妻にかかってきたのだと思った。 僕はそのまま夕方の用事を済ませていたんだけど、35分ほど経ってから、アニタが僕に声をかけてきて“電話に出て。クインシーからよ”と言った。その間、2人はずっとおしゃべりをしていた。彼はまさにそういう人だった。思いやりがあり、気遣いができ、誰の話にも真摯に耳を傾ける人だった。
クインシーは、すでにあらゆる最上級の形容詞が使われているけど、それも当然のことだよ。彼のような人は一生に一度出会えるかどうかだと思っているし、彼が僕たちの人生の一部であったことに、僕は永遠に感謝している。Qは音楽業界の巨人であるだけでなく、現在も、そしてこれからも、世界的な宝なんだ。
僕たちは90年代前半、スイスのモントルーでクロード・ノブスとともに伝説的なコンサートをプロデュースした際、多くの夜明けを共にした。そして、Qが90歳を迎えた際には、彼の自宅で、彼の家族やハービー・ハンコック、グレッグ・フィリンゲインズといった親しい友人たちに囲まれて、その節目を彼と一緒に祝うことができたのは光栄なことだった。
クインシー、素晴らしい思い出、知恵、そして素晴らしい音楽をありがとう。僕たちが共有した時間は、いつまでも大切にしたいと思う。宇宙を歩み続けるあなたに、楽しい時間がこれからも続きますように。また会える日まで、(酒場で)相棒よ、最高の旅でした! 永遠にあなたを愛します……x」