David Bowie, Angie, 3-Week-Old Baby Zowie - 1971 (Photos by Ron Burton)
デヴィッド・ボウイ(David Bowie)の最初の妻アンジー・ボウイことメアリー・アンジェラ・バーネットは、英MOJO誌のボウイ特集号にて、1974年のボウイの苦悩と成功を振り返っています。抜粋が同誌のサイトで公開されています。
ボウイとアンジーは1970年に結婚。1974年には2人の関係はぎくしゃくし、最終的には別れることになりましたが、1980年まで離婚はしませんでした。
ボウイは1974年に『Diamond Dogs』と『Young Americans』という2枚のアルバムを制作しました。『Diamond Dogs』には、退廃した都市の黙示録とも言うべき世界観を創り出す楽曲を多く収録しています。
アンジーは、60年代から彼を悩ませ続けていた終末論的なビジョンが形を成し始めた頃の、ボウイの創造的な思考について振り返っています。
「まあ、悲観的になるわよね? 私が彼に会ったとき、すでに地球温暖化が話題になっていた。化石燃料に代わるエネルギーを見つけなければ、私たちは死んでしまうことはすでに分かっていたのよ」
1974年、世界滅亡や社会崩壊だけがボウイを悩ませていたわけではなく、アンジーの回想によると「彼は疲れ果て、怒り狂っていた」という。
「デヴィッドは(前のマネージャーの)ケン・ピットから自由を手に入れるために莫大な代償を払った。その代償とは(1970年から1975年までボウイのマネージャーを務めた)トニー・デフリースだったのよ」
トニー・デフリースは、代理人やレコード会社と戦いながらボウイの味方をしてきましたが、この当時、2人の関係は悪化していました。
「トニーが役に立たなかったという意味ではない。当時、私たちは(ケン・ピットとの)契約を破棄する人物を必要としていて、それをやってのけたのはトニーだった。それを否定するつもりはない。トニーが成長した姿をデヴィッドが受け入れなかっただけ。私はこれがが難解で哲学的で、とても素晴らしい話だったらいいのにと思う。でも真実は、それが肝心なことだけど、デヴィッドにとっては、自分に支払われるべきものを手に入れたいという気持ちがすべてだった。それは正しくなかった。彼はたくさんの人たちを抱えていたから」
1974年のボウイのツアーは、高価なセットと入れ替わりの激しいミュージシャンの参加で、驚異的なものでした。デフリースは支援の確保と、資金面および組織化を任されました。
「デヴィッドと私は彼を準備させた。私たちが彼に何を売るべきかを伝え、彼はそれを売った。デヴィッドはツアーに出て、毎晩全力を尽くして働いていて疲れ果てていた。誰がミュージシャンに支払うのか、誰がステージクルーに支払うのかなど心配する必要はまったくなかった。トニーがそれを対処してくれていた」
1974年におけるボウイの音楽的変貌は印象的なものでした。ソウルやR&Bの影響は、アルバム『Young Americans』のために制作中の楽曲に刻み込まれていました。 スタイルの変化は、その後のツアーでも明らかでしたが、これまでと同様に、ボウイはそれをストレートに再現しようとはしていませんでした。
「ちょっと皮肉っぽかったと思うわ。まるで、ソウルを歌う英国の美少年のようだった。彼はそれがそんなに変じゃないことを知っていた。デヴィッドは素晴らしいソウルサウンドに変身したのよ」