ビートルズ宛のファンレターの整理からアルバム『Abbey Road』の制作現場まで、10代の時にビートルズの近くで働いたマール・フリマークが当時を回想。
ビートルズ(The Beatles)が「Come Together」の最後の仕上げをするときに部屋にいたことを英ガーディアン紙の企画で振り返っています。当時の未公開写真も公開しています。
フリマークは米ニューヨークのクイーンズ出身。ラジオや『エド・サリヴァン・ショー』でビートルズを知って夢中になり、ビートルズの米国公演にも行ったことがあるそうです。
高校時代、ビートルズがマンハッタンにオフィスを構えていると聞いた彼女は、タイムズスクエアの中心にあるオフィスビルの18階に向かいます。ドアの看板には「Beatles (USA) Limited and Nemperor Artists, Ltd.」と書かれていました。
「私はノックして中に入ると“こんにちは、面接ですか?”と受付の女性に尋ねられたので、私は即座に“はい”と答えました。何の面接を受けるのか知りませんでした。
彼らはファンレターの仕分けを手伝ってくれる10代の若者を探していて、私はすぐに採用されました。毎日、学校が終わると地下鉄に乗ってオフィスに行き、1968年に高校を卒業すると、フルタイムの仕事をオファーしてくれました。“Back in the USSR”のデモが発売前にオフィスに届いた日の興奮は忘れられません。私たちはみんな大喜びで、すぐに何度も何度も繰り返し聴きました。
1969年7月、私は2週間の休暇をロンドンで過ごしました。ロンドンのサヴィル・ロウにあったアップル・コアの本社で過ごしましたが、外にはビートルズが現れるかもしれないと待っているファンがいました。私はドノヴァンと一緒にオフィスの小さな白黒テレビで月面着陸を見ました。
その後、ビートルズのプレス担当で、私にとって素晴らしいメンターであったデレク・テイラーが、私をEMIスタジオに行けるように手配してくれました。
1969年7月23日の午後、緊張した18歳のアメリカ人である私はEMIレコーディング・スタジオに向かっていました。スタジオでは、ビートルズが『Abbey Road』に収録される“Come Together”の仕上げ作業を行っていました。
スタジオに入ると、声とギターが聴こえてきました。アシスタントのマル・エヴァンスが出迎えてくれました。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴはスタジオのあちこちに散らばっていました。
髭を生やしたジョージはブルーのジーンズとお揃いのシャツを着てオルガンの上に座っていました。髭を生やしビーズをつけた白一色のジョンはドラムセットの前に座っていました。ポールは白いTシャツに裸足というカジュアルな格好でスタジオ内を常に動き回り、真っ赤なズボンをはいたリンゴがドラムを叩いていました。ジョージ・マーティンもそこにいて、あらゆることをチェックしていました。
スタッフたちがセッティングをしたり、機材やマイクを動かしたり、ドラムのヘッドにタオルをかけたりと、にぎやかでした。
私は自己紹介をしました。少年たち--誰もがそう呼んでいたようです--は、私がニューヨーク・オフィスの出身であることを思い出してくれて、みんな笑顔でした。私は温かく迎えられたと感じました。
それから彼らは仕事に取り掛かりました。私は何枚か写真を撮りました。私は決してプロのカメラマンではないので、公開するのはこれが初めてです。
“Come Together”のセクションのリハーサルを始めると、ポールがリードしているように見えました。ポールはあるところで止めて“4ビートだよ、リンゴ”と提案して話し合いを始めました。“それでいこう”となりました。ポールとジョージはハーモニーを奏で、ジョージは泣きのギター・ソロを弾いていました。ジョンはギターのネックに指を走らせながらチューニングをしていました。
その日、ポールが一番生き生きしていました。ジョンはスコットランドで交通事故に遭ってスタジオに戻ったばかりだったので、どちらかというと静かでした。私は彼のために白い花を持ってきたので、彼はそれを隣のアンプの上に置きました。ジョージは物思いにふけっていましたが、リンゴは辛抱強く落ち着いていました。
私はつま先で歩き回りました。すべてを吸収しようとして、透明人間のようになりながら、彼らの演奏に耳を傾けていました。ジョンとポールと何度か目が合いました。私は冷静さを保ち、微笑みました。時間が止まり、周りの全てが止まって見えました。
帰る時が来ました。私は手を振って別れを告げ、あの有名な階段を降りました。
その時、私はこれから何が起こるのか全く想像していませんでした。1年以内にバンドは解散することになるのです。
1970年、解散が間近に迫るなか、私はニューヨークのオフィスを去りました(現在でもかつてのオフィス仲間とは連絡を取り合っている)。
母方の祖父の予言したように、運命は私を照らし続けました。1900年代初頭、ロシアからの移民で音楽家だった祖父は、占いをしたり茶葉を読んだりしていました。母は、とても活動的な少女が音楽家になるかどうか尋ねると、彼は“いや、ショービジネスの裏方になるだろう”と答えたそうです。私に影響を与えたくなかった母は、このことを私に言いませんでした。その後、私はこの街でトップクラスの演劇PR会社に就職し、ミュージカル『ヘアー』のオリジナル・ブロードウェイ作品などに携わりました。エンターテイメント・マーケティングとPRで成功したキャリアの始まりです。
その後、1980年8月、セントラルパークでサイクリングをしていたとき、私は偶然、ジョンが赤ん坊の息子ショーンとベンチに座っているのを目撃しました。私は近づいて挨拶をし、少し話をしました。彼はとても幸せそうでした。それから4ヵ月後、彼はこの世を去りました。彼や彼のバンドメンバーとともに、歴史に残るあの短い、一瞬の時間を過ごせたことは、なんという特権であり、光栄なことでしょう」