ブライアン・メイ(Brian May)は、
クイーン(Queen)の活動が軌道に乗る前、中等学校の講師として教鞭をとりながら、バンドがブレイクするのを待っていました。クイーンの伝記作家マーク・ブレイクによると、当時の教え子の一人にマリアンヌ・エリオット=サイードという女性がいました。マリアンヌは後に
ポーリー・スタイレン(Poly Styrene)と名乗り、パンク・ロック・バンドの
Xレイ・スペックス(X-Ray Spex)のフロントウーマンとして活躍しました。彼女は2011年に亡くなりましたが、生前、マークに対して、当時の教え子たちがブライアンをからかっていたと回想していました。マークは英Classic Rock誌にこの件について寄稿しています。
1972年春、ブライアンは南ロンドンのストックウェル・マナー・スクールで講師として教鞭をとりながら、バンドがブレイクするのを待っていました。
ポーリーは数十年後、当時のことを、こう回想しています。
「ブライアンはとてもいい先生だった。でも、彼は長髪で、よく靴に穴を開けてやってきていたので、私たちはよく彼をからかっていました」
ポーリーのお気に入りのからかいは、彼に結婚しているかどうかを尋ねることでした。
「先生、もし結婚しているのなら、どうして奥さんはシャツにアイロンをかけないのですか?」
ブライアンの講師としての期間は1972年9月まででした。クイーンの当時のマネージャーがバンドメンバーに週給20ポンドを払うことにした時、ブライアンは辞表を提出しました。同僚の先輩の一人は信じられなったようで、「ポップ・グループのために諦めるのか?」とブライアンを説得したそうですが、彼の決断は固く、そして、その決断は実を結びます。クイーンは1973年7月6日にデビュー・シングル「Keep Yourself Alive」をリリースし、その1週間後にデビュー・アルバムをリリースしました。
その1年後、ポーリーは、音楽祭に参加するために家を飛び出し、各地を旅しました。そんなとき、彼女はテレビ番組『Top Of The Pops』で、かつての先生がマントを着て注目を集めているのを見ました。「“笑いを取るには良さそうだ”と思った」と彼女は振り返っています。
数年のうちに、ポーリーはマリアンヌからポーリー・スタイレンと名前を変え、Xレイ・スペックスを結成し、シングル「Oh Bondage Up Yours!」や「The Day the World Turned Day-Glo」、デビュー・アルバム『Germ Free Adolescents』をリリースします。Xレイ・スペックスは1979年に解散します。
ポーリーは2011年に乳がんで亡くなりましたが、その数年前、ロンドン中心部のソーホーにあるラーダ・クリシュナ寺院の近くで、車を停めていたブライアンとばったり会ったそうです。
ポーリーによると、2人はすぐにお互いを気付いたそうですが、「メイのシャツはアイロンがかけられ、髪はまだ長いけど、靴には穴が開いていなかった」。ブライアンが彼女に向かって歩いてくると、彼女は思わず「先生、結婚はまだですか?」とジョークを言ってしまったと振り返っています。