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クラウス・ノミ没後40年 アルバムが初デジタル・リリース&CD/LP再発も決定 「The Cold Song」のHD版MVも公開

2023/03/31 17:39掲載
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Klaus Nomi / Klaus Nomi
Klaus Nomi / Klaus Nomi
デヴィッド・ボウイ(David Bowie)に見出され、一躍注目される存在となった奇才クラウス・ノミ(Klaus Nomi)。没後40年にあわせ、彼が遺した作品のリイシューが決定。デジタルでのリリースは今回が世界初。HDで復元された「The Cold Song」のミュージックビデオが先行公開されています。



または



以下インフォメーションより

『オペラ・ロック(Klaus Nomi)』(1981年)、『シンプル・マン(Simple Man)』(1983年)の2作のスタジオ・アルバム、ライヴ・アルバム『イン・コンサート(In Concert)』(1986年)が世界初のデジタル化。

ベスト盤『アンコール~ベスト・オブ・クラウス・ノミ(Nomi’sBest)』(1983年)は初の立体音響化(ドルビーアトモスと360リアル・オーディオ)。

この4タイトルが4月28日(金)に各デジタル・プラットフォームで初リリースとなる。6月16日(金)にはCDとヴァイナルでの発売も予定されている。

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2023年3月31日から9月にかけて、クラウス・ノミの全カタログの再発とアップロードを行い、40年前の1983年8月6日にニューヨークで39歳という若さでこの世を去ってしまったアーティストを称える。

シンガーとしての彼の声域はバス・バリトンからカウンターテナーまでと並外れて広かった。ニュー・ウェイヴのグループに囲まれた、カリスマ性の高いステージ上での存在感や、パーセルのアリアを歌っているときなど、彼のこの世のものとは思えない幽玄なスタイルは観衆に畏怖の念を抱かせた。ニューヨークに暮らしていたヨーロッパ人のクラウス・ノミは、複雑かつ才能豊かな人物だった。

1979年、ベルリン時代の真っ只中にいたデヴィッド・ボウイが、前途有望な奇才にいち早く注目。NBC TV『サタデー・ナイト・ライヴ』の特番にバックアップ・シンガーとして彼を抜擢し、一躍注目される存在になる。

テレビ出演後、ライヴ会場に多くのファンが殺到するようになり、1980年に待望のデビュー・シングル「Keysof Life」をリリースする。1981年にはファースト・アルバム『オペラ・ロック』をリリースと、活躍の場を広げていった。
翌1982年にはセカンド・アルバム『シンプル・マン』をリリースする。しかし、この頃には既にHIVに感染しており、身体はすっかり衰弱していた。1983年8月6日にNYの病院でエイズにより39年の生涯を終えた。

クラウス・ノミは音楽界で恐らく初の“有名な”エイズの犠牲者だった。当時は「ゲイの癌」というかなり嘆かわしい言及のされ方をされており、台頭しつつあったこの病がいかにほとんど理解されていなかったかを示している。
唯一無二のアーティストの命は、レコードがゴールド認定され、コンサート・ホールが酔いしれ、ファッション界が彼に魅了されていたスターダムの頂点で奪われることになってしまった。

クラウス・ノミは1979年から1982年にかけてチャートのトップを席巻し、その後どこか別の惑星にある故郷へと帰っていった…

この没後40周年を記念し、ソニー・ミュージックからクラウスのオフィシャル・ディスコグラフィの全カタログが再発されることになった。スタジオ・アルバム2作(『オペラ・ロック』と『シンプル・マン』)は初めてデジタル化。
ベスト盤『アンコール~ベスト・オブ・クラウス・ノミ』は初立体音響化(ドルビー・アトモスと360リアル・オーディオ)。

この4タイトルが4月28日(金)に各デジタル・プラットフォームで初リリースとなる。6月16日(金)にはCDとヴァイナルでの発売も予定されている。
また、HDで完全に復元された5つの公式ミュージックビデオが、デジタルプラットフォームで順次公開される。

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●知らぬはあなたノミ?
1944年にインメンシュタット(ドイツ南部)に生まれ、かつての西ベルリンで育ったクラウス・シュペルバー(Klaus Sperber)は、オペラとロック・ミュージックが大好きだった。1972年にニューヨークに移住すると、最終的には現地のキャバレーのステージに芸術表現の場を見いだすことになる。彼のルックスと声にはニュー・ウェイヴ・シーンの王道が反映されており、アンディ・ウォーホルのファクトリー(ウォーホルのスタジオ)期以降のヴァイブを湛えていた。彼はマックス・カンザス・シティ(ニューヨークのナイト・クラブ兼レストラン)などの会場に、アンダーグラウンド・シーンの友人たちに囲まれて出演していた。1950年代のSF感にあふれ、モノクロの鋭角な衣装や類まれな声により独特の世界を築いた彼には次々と出演のオファーが舞い込んだが、キャリアが爆発的に飛躍したのはデヴィッド・ボウイとの出会いがきっかけだった。そしてクラウスはペルソナに磨きをかけ、全米ツアーに旅立っていった。

●フランスのスター
1980年代の世界においてはレコード会社との契約がまだ至高の目標とされており、ステージは最終手段と考える向きが多かった。アルバムのプロモーションのためにツアーを行っていたのだ。そこでクラウスは有望なインディーズ系のメーカー(スピンディジー・ミュージック [Spindizzy Music])と契約した。そして彼らの可能性を認めたフランスRCAのアーティスティック・ディレクターたちの手助けにより、1981年9月に『オペラ・ロック』がリリースされた。
クラウスはプロモーションのためにフランスに滞在し、素晴らしい結果をもたらした。パリのファッション界はこの異才のパフォーマンスを観にル・パラスに殺到し、標準から外れようとする者を普段はいち早く火あぶりにするクラシック界ですら異論なく、彼を認めすらした。このファースト・アルバムは当時のプラチナ認定に相当する30万枚を売り上げる大ヒットとなった。(ヘンリー・パーセルの1611年のオペラ『アーサー王(King Arthur)』のアリアに基づいた)「ザ・コールド・ソング」のようなより”クラシック“な風合いのトラックがフランス人オーディエンスを最も惹きつけたことに、レーベルの関係者は大喜びだった。

●シンプル・マン
2作目のアルバム『シンプル・マン』は1982年11月、ファースト・アルバムのフランスにおける成功の影響を受けたアメリカとドイツのマーケットでは特に、はるかにポジティヴな状況の中でリリースされた。道楽息子クラウスは母国に帰り、ようやくその才能を認められた。「シンプル・マン」や「フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン」といったシングルに押し上げられ、同作は世界的な成功を収めた。

●発疹
1982年、新しい病が大きく報道され、クラウスは自分の身体の発疹に気づくようになった。彼の最終診断が下されたのだ。何の治療法もない中、その結果は避けられなかった。1982年は始まりの年と誰もが思っていた反面、現実は終わりが近づいていたのだ。クラウス・ノミは1983年8月6日、衰弱によりニューヨークでこの世を去った。彼は作品に最期まで力を振り絞った。

●ノミの今
クラウス・ノミの影響は今日も生き続けている。1980年代終わりのまばゆい時代よりは間違いなく散財的ではあるものの、ジャン・ポール・ゴルチエやジバンシィの一部の作品、さらにはレディー・ガガの衣装などに今も認めることができる。『アメリカン・ホラー・ストーリー:シーズン11』の主要キャラクターの1人を見るだけでも、誰かのことを思い出すだろう。広告の世界を見渡せば、彼の音楽が数え切れない国々の実にたくさんのキャンペーンにおいてシンクロされていることに気づくだろう。

クラウス・ノミは1980年代の初めにオーディエンスの心を掴んだ。そして40年後の今も、彼のオーラと声は私たちを魅了し続ける。ディスコグラフィーがオンラインにアップロードされ、再発、ビデオの復刻。2023年9月にはリミックス・アルバムも計画されており、この40年間ポップ界に比類なき存在であり続けたこのアーティストを発見する機会がたくさん出てくるだろう。