元
ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)の
ビル・ワイマン(Bill Wyman)は、英Classic Rockの企画で、ブライアン・ジョーンズ、ローリング・ストーンズ、キース・ムーン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、ジミ・ヘンドリックス、ヤードバーズについて語っています。
■ブライアン・ジョーンズ
「ストーンズがツアーに出ると、僕とブライアンはいつも同室だった。彼は本当に優しくて素敵で、他の誰よりも知的だった。彼はとても明晰だった。でも、時々、ちょっと嫌な奴になることもある。
多くの人の記憶に残るような、邪悪な一面も持っていた。ある夜、僕の彼女を盗んだり、汚いことをした。汚いことをしても、彼の無邪気で天使のような笑顔で許してしまう。“ごめんよ。そんなつもりじゃなかったんだ”。だから、彼を愛し、そして憎むことになる。
彼はローリング・ストーンズの生みの親だから、僕はいつも彼のことを良く言っているんだ。ミックやキースのことをどう言おうと、ブライアンがいなかったら、彼らは住んでいたダートフォードという田舎で別のバンドをやっていたかもしれない。彼らはロンドンっ子ではなかった。ミックはいつもコックニー訛りを試しているが、それは彼にふさわしくない。ストーンズの中で労働者階級だったのは、僕とチャーリーだけだ」
■ザ・ローリング・ストーンズ
「キースは今でもクリスマスにアロマキャンドルを送ってくれるよ。誕生日やクリスマスには、みんなでプレゼントを送り合っている。ビジネスではなく、家族ぐるみの付き合いをしていて、とてもうまくいっている。遠い親戚のようなもので、エルシーおばさんやフレッドおじさんはとても魅力的だけど、いつも会いたいとは思わない。
僕がストーンズを離れた当初は、彼らとの関係を再構築するのに数ヶ月かかった。かなりストレスが溜まっていたし、彼らは僕に去って欲しくなかったからね。だから、彼らは愚痴っぽくなった。“素晴らしい30年だった。乾杯!”と優しく言う代わりに、ミックは甘ったれた態度で馬鹿げたことを言うんだよ。“誰かがベースを弾かなければならないのなら、僕がやるよ。そんなに難しいことじゃないだろう”。
キースは“木箱(棺)に入らない限り、誰もこのバンドを辞めない”と言っていた。とにかく、彼らは2年間、僕のためにドアを開けておいてくれた。チャーリーとミックは電話で“本当に辞めるんじゃないだろうな?考え直したか?”と言っていた。その後、'94/'95ツアーを行うことになった時、彼らは最終的な決断を下さなければならなかった。ミックとチャーリーがやってきて、一晩中一緒に過ごして、僕に残るように説得してくれた。戻らなかったことを後悔したことはあるか?全くないよ」
■キース・ムーン
「ムーニーの家によく泊めてもらった。キースはいい奴だったけれど、ちょっとやり過ぎてしまった。医者が来ては大量の薬を与え、3日後にはキースがそれを全部飲んでいた。バリウム10錠、睡眠薬、覚醒剤など、彼はいつもそれを飲んでいた。朝はシャンパンにブランデーを入れて飲んでいた。僕はそんな彼を信じられない思いで見ていた。
あるとき、僕が朝、お茶を入れていると、スウェーデン人のガールフレンド(アネット・ウォルター・ラックス)が降りてきた。二階で喧嘩しているのが聞こえていた。彼女の顔の両側に傷があり、血が流れていた。僕は“アネット、何があったんだ?”と言うと、彼女は“何でもないわ。"キースが私に猫を投げたの”と言っていた。
彼はおかしなことをするんだよ。僕とリンゴの待ち合わせ場所に、彼は狩りの格好で来るんだ。帽子、コート、乗馬鞭、ズボンなど、キツネ狩りの道具を買い込んで、待ち合わせ場所に来るんだよ。ある時、彼は(ザ・フーのベーシスト)ジョン・エントウィッスルの誕生日プレゼントにウェストカントリーに墓地を買ったんだ」
■ジョージ・ハリスン
「ジョージは亡くなる直前にリズム・キングスのアルバム(2001年の『ダブル・ビル』)に参加した。僕は彼に電話して“この曲のギター・パートをやってくれないか?”と言うと、彼は“なぜ僕に電話しているんだ? 君のバンドにはアルバート・リーとマーティン・テイラーという世界最高のギタリストが2人いるじゃないか。僕に何の用だい? 僕は一音しか弾けないよ”と言っていた。僕は彼に“ジョージ、その音が欲しいんだ”と言うと、彼は“よし、それなら テープを送ってくれ”と言った。僕はそうした。彼のギター・パートは素晴らしかったよ。
その後、彼は、僕が手がけたマルク・シャガールの本(ワイマンの写真を含む『Chagall’s World』)を彼にプレゼントした後、素敵な手紙をくれた。彼はそれに“バート・ウィードン”とサインしていた」
■リンゴ・スター
「ジョン・レノンとはアメリカでよく会っていて、座って楽しくおしゃべりしていた。ロサンゼルスに行ったとき、彼がこう言ったのを覚えている。“いつか君とチャーリーと一緒にリズムセクションとしてツアーに出たいね”。もちろん実現はしなかったけど。
ポールともよく一緒に遊んだ。彼らが持っていなかったビートルズの記念品をたくさんあげた。例えば、シェイ・スタジアムで演奏しているフィルムや、彼らがアメリカで行った最初のライヴだったワシントン公演(1964年2月)のフィルムとか。それから、リンゴにはトニー・ハンコックのグッズをたくさんあげた。
一番近かったのがリンゴだった。70年代、彼はモンテカルロに住んでいて、僕は南フランスに住んでいたので、よく会った。クラブに行って酔っ払ったり、モンテカルロに行って食事をしたり。それから僕の家でミュージックビデオを見たりしていた。いい時代だった。今でもたまに会うよ」
■ジミ・ヘンドリックス
「僕が初めて彼を見たのは1966年、ニューヨークのクイーンズにあるクラブで、当時彼はジミー・ジェームズとして知られていた。後頭部でギターを弾いたり、弦を噛んだり、普通の人がやらないようなことをやっていた。ジミはいい奴で、ストーンズはみんな彼と仲が良かった。
アメリカから帰ってきたとき、スコッチ・オブ・セント・ジェームズでアニマルズにばったり会った。チャス(チャンドラー)が僕に“俺たちは来週アメリカに行くんだ”と言ったので、僕は“ニューヨークに行くなら、ヘンドリックスという男を観に行けよ。彼は素晴らしいよ”と言った。
それで彼らは行き、チャズは彼に会って、サインをして連れてきたんだよ。僕は、彼がブロムリーのクラブ(The Bromel Club、1967年)で演奏したとき、そこで彼を見た最初の一人だった。それが彼の(英国での)最初のライヴだったかもしれない。そこにはほとんど誰もいなかった。それでも彼はその夜、ギターにライターの燃料をかけ、火をつけていた」
■ヤードバーズ
「ストーンズがリッチモンドのステーション・ホテルで演奏していた最後の1、2ヶ月の間、若い子たちがずっと僕らのところに来ていた。彼らからは“ジミー・リードの曲はどのキーで弾くのか”とか、“スリム・ハーポの曲の中間部はどうなっているのか”などと聞かれ、どこから弦を入手したのかとしつこく質問してくる奴もいた。それは(ヤードバーズのベーシスト)ポール・サミュエル=スミスだった。他の連中もヤードバーズだったんだ。
彼らは僕たちからブルース・リフの基礎を学んだ。僕たちが去った後、彼らは会場を引き継いだけど、僕たちのような観客や喝采を浴びることはなかった。でも、その後エリック(クラプトン)が加入して、別の種類のバンドになった。エリックとはそのときからずっと仲間だ。ジミー・ペイジも同じだった。彼はまだセッション・ギタリストだった63年頃に、ストーンズが小さな会場で演奏するのをよく見に来ていたんだよ」