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マンチェスターの音楽シーンに火をつけたセックス・ピストルズの歴史的ライヴ 参加したピーター・フックが当時を語る

2022/05/19 16:44掲載
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Peter Hook
Peter Hook
史上最も影響力のあるライヴのひとつと言われている、セックス・ピストルズ(Sex Pistols)が1976年6月4日にマンチェスターで行ったコンサート。マンチェスターの音楽シーンに火をつけたこのライヴには、後にバズコックス(Buzzcocks)ジョイ・ディヴィジョン(Joy Division)ニュー・オーダー(New Order)ザ・スミス(The Smiths)ザ・フォール(The Fall)のメンバーとなる人物や、ファクトリー・レコードを設立したトニー・ウィルソン(Tony Wilson)も参加していました。

参加していたピーター・フック(Peter Hook)バーナード・サムナー(Bernard Sumner)は、ピストルズのパフォーマンスに衝撃を受け、すぐに自分たちもバンドを結成することを決意。イアン・カーティスらと共にジョイ・ディヴィジョン(Joy Division)を結成し、後にニュー・オーダーを結成しました。

ピーター・フックはThe Big Takeoverのインタビューの中で、この伝説のコンサートについて語っています。また同じインタビューの中で、イアン・カーティスが亡くなった直後のジョイ・ディヴィジョンの様子についても語っています。

「今、バズコックスのピート・シェリーの伝記を読んでいるんだけど、とても面白い本だよ。彼がパンク・ロックの重要性を認識し、彼と(元バズコックスのフロントマン)ハワード・ディヴォートがマンチェスターにパンク・ロックを持ち込んだというのが興味深い。彼らはセックス・ピストルズとマルコム・マクラーレンのファンだった。彼らはロンドンで二人を探し出し、マンチェスターに来るように提案した。1976年6月4日に(マンチェスタの)フリー・トレード・ホールで彼らの演奏を見たとき、俺の人生は一変した。だから、ピート・シェリーとハワード・ディヴォートに感謝してもしきれない。セックス・ピストルズに触発されて、すべてのバンドが結成されたんだ。あの夜、次から次へと人が触発され、マンチェスターのシーン全体があの一晩のコンサートから生まれたんだ。

音楽的な観点から見ると、コンサートはとてもひどいものだった。音もひどかった。それを見て、最初に思ったのは“なんだ、これがパンクなら俺にもできる!”だった。セックス・ピストルズが“これならできる”と教えてくれたので、そうやってひどい騒ぎを起こしながら始めたんだ。グループを立ち上げるには、最も馬鹿げた方法だと思うよ。みんな思いつきで、何も計画せずにやった。その後、シーン全体が盛り上がったんだ」

Q:そのコンサートの前に、すでにミュージシャンになろうと考えていたのですか?それとも、それがすべてのきっかけだったのでしょうか?

「きっかけは、あの時だ。セックス・ピストルズを見るまでは、そんなことは考えもしなかった。僕は音楽、特にヘヴィメタルをこよなく愛していたんだ。ディープ・パープルやブラック・サバスなど、そういうタイプのバンドをよく聴いていた。仕事が退屈だったので、よく音楽雑誌を読んでいた。Sounds、Melody Maker、New Musical Expressなどを、新聞販売店で待っている間、一日中読んでいたから、ミュージシャンの事情にはとても詳しかったんだ。不思議なことに、(演奏を)しようと思ったことは一度もないんだよ。ぜんぜん。セックス・ピストルズにはその効果があった。ジョニー・ロットンが30分間“ファックオフ”と叫ぶのを見て“俺にもできる。観客にファックオフ(失せろ)と言えばいいんだろう!”と思ったんだ。それは誰かが暗い部屋のドアを開けたようだったんだ。“これはいけるぞ”と思ったよ。

俺は普通の仕事をしていた。マンチェスター市役所で9時から5時までの事務の仕事をしていた。公務員だったんだよ。セックス・ピストルズのライヴが終わったとき、バーナード(サムナー/ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダーのバンドメイト)に“ああいうバンドを結成しよう”と言った。ばかげた話だ。俺は楽器を持っていなかったので、次の日に楽器を買いに行った。次の日に楽器を買ってきて、それから出発したんだ。そして、なんとかやり遂げたんだ」

また同じインタビューの中で、イアン・カーティスが亡くなった直後のジョイ・ディヴィジョンの様子についても語っています。

Q:イアンが亡くなってジョイ・ディヴィジョンが終わった後、多くの人が諦めてしまったのではないでしょうか。

「ああ、その通りだよ。イアンの亡くなった後、飲みに行ったのを鮮明に覚えている。正直言って、葬儀と同じくらい辛かった。マネージャーのロブ・グレットンが“どうするんだ?”と言ってきた。俺たちは“わからない”と答えた。俺たちは悲しみに打ちのめされ、とても意気消沈していた。俺たちが得た唯一の強さは、一緒にいることだった。実際、俺たちは多くの時間を共に過ごし、それはとても良いことだった。そして、彼は俺たちに“続けるか”と言った。俺たちは“続けてもいいのか?”と言った。すると彼は“ああ、続けよう”と言ったんだ。つまり、何の計画もなかったんだ。俺たちはジョイ・ディヴィジョンを捨てるという決断をした。もし誰かがジョイ・ディヴィジョンを脱退したら、ジョイ・ディヴィジョンは続けられないといつも言っていたので、その約束に従ったからだ。いろいろな意味で無謀な決断だった。それがどれほど難しいことなのか、俺たちは気づかなかったんだ。

ニュー・オーダーの時もその約束をしたんだ。残念ながら、その約束は忘れてしまったようだ。でもね、歳をとると人は変わるものなんだよ。

俺たちはジョイ・ディヴィジョンを捨てて、もう一度やり直すことにしたんだ。だから、まったく新しいセットを作らなければならないという問題に直面したんだ。イアンが亡くなる直前にマーティン・ハネットと一緒にデモを作ったんだけど、そのデモに入っていたのが“Ceremony”と“In a Lonely Place”の2曲だったんだ。ロブは“その曲を演奏するべきだ”と言った。俺らは“ジョイ・ディヴィジョンとは関わりたくない。完全なブレイクが必要だ”と言った。すると彼は“この2曲は素晴らしいし、イアンは君に任せたよと残したんだ”と言ったんだ。それで、次の章に向けて素晴らしいスタートを切ることができた。でも、それがこんなに難しいことだとは思ってもみなかったよ。もし、ジョイ・ディヴィジョンとして続けていたら、間違いなくもっと簡単だっただろうね。それが良かったかどうかは想像もつかないけど」