トニー・ヴィスコンティ(Tony Visconti)は、
デヴィッド・ボウイ(David Bowie)の1977年アルバム『Low』の制作、特に楽曲「Weeping Wall(邦題:嘆きの壁)」の制作について、知られざる逸話を英BBC Radio 6 Musicの特別番組『Bowie at 75』で語っています。
『Low』は、後に「ベルリン三部作」と呼ばれることになる作品群の第1弾。ブライアン・イーノと共に創り上げた実験的作品で、ヴィスコンティがプロデュースしています。
ヴィスコンティは『Bowie at 75』の中で、こう話しています。
「この曲は、僕たちが戦争で荒廃した街に住んでいたからこそ書かれた曲なんだ。ベルリンは四つに分かれていて、最も悲しいのは東側だった。時々、チェックポイント・チャーリー(※ベルリンが東西に分断されていた時代に、同市内の東ベルリンと西ベルリンの境界線上に置かれていた国境検問所)を越えて東ベルリンに行き、昼間に食事をしたり、散歩をしたりしていた。僕たちはそれをすることが許可されていたが、とても注意深く監視されていたんだ。
西側から東側に行くのも、その逆も、ちょっとドキドキしたよ。最も絶望的だったのは、西側に戻ろうとしたとき、車道に沿って東ベルリンの人たちが並んでいて、白昼堂々と“車のトランクに入れてくれないか”“車の底にしがみついていいか”と懇願していたことだった。
この絶望的な人々の顔を見て、デヴィッドは“Weeping Wall”を書く気になったのだと思う。実際にベルリンの壁の向こう側では人々が泣いていたのだからね。エルヴィル城(フランス)でのレコーディングが終わると、ベルリンのハンザ・スタジオに移動した。ここにはデヴィッドのほか、彼の仲間であるイギー・ポップ、アシスタントのコリーヌ・シュワブ(通称ココ)が住んでいた。エドゥ・メイヤーというエンジニアもいたよ。
“Weeping Wall”が完成し、ミックスが終わったとき、コントロールルームにはイギー、エドゥと彼の妻バーバラ、そして僕がいたと思う。
デヴィッドは“みんな、紙と鉛筆を持ってきてほしい。これから‘Weeping Wall’を聴くから、この曲がどんな曲だと思うか絵を描いてほしいんだ”と言ったので“Weeping Wall”を一通り流して、全員で走り書きをしたんだ。
(全員、絵を描き終わったら裏返しにして他の人に自分が描いた絵を見えないようにしていた)
僕は他の人の絵を見なかったし、誰も僕の絵を見なかったので、デヴィッドは非常に困惑しているようだった。
みんなが描き終わると、彼は“よし、紙を裏返して(皆に見せて)くれ”と言うので、僕たちはその通りにした。すると、全員がほとんど同じ絵を描いていた。本当に不思議だよ。全員がノコギリの刃のようなギザギザの端の壁を描いていたんだ。トップが平らな壁ではなく、トップがギザギザの壁だよ。これはとても重要なことなんだ。
ある人はそのギザギザの上に月を置き、ある人は太陽を円のように置いたけど、ほとんど全員が同じ絵を描いた。そして、デヴィッドが自分の紙を裏返すと、そこにはワニのようなトカゲが口を開けて太陽(オーブ)を食べている絵が描かれていたんだ。デヴィッドも驚いたと思うけど、彼はそうなることを望んでいた。そして、その笑顔の中で、彼は自分には特別な精神力があり、それがこのいわゆる偶然の一致を引き起こしたのかもしれないと気付いたのだと思うよ」