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『ジャズメン死亡診断書』刊行記念トークショー レポート到着

2017/03/24 16:12掲載
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ジャズメン死亡診断書
ジャズメン死亡診断書
23人のジャズメンの死因と音楽に迫った異色の一冊『ジャズメン死亡診断書』の刊行を記念して著者・小川隆夫(音楽ジャーナリスト/整形外科医)のトークイベントが3月17日に行われています。そのレポートが到着

以下、シンコ-ミュージックより


小川隆夫

音楽ジャーナリスト/整形外科医である著者小川隆夫さんが、自著「ジャズメン死亡診断書」に登場するジャズメンの解説をしながら、その音源を聞くというイベントが3月17日(金)下北沢本屋B&Bで行われた。

小川:もう読んでいただいた方には「今さら何を言ってるんだ」ということになりますが、今日は本では紹介していない人も加えて、様々な要因で亡くなったジャズメンのお話をしようと思います。まず「ジャズメン死亡診断書」って実にふざけたネーミングだと思った方もいると思いますし、知り合いからもそう言われましたけど、だったらもっといい題名を教えて欲しい(笑)。

70年代に医学部に入学した頃はロックのミュージシャンの死亡が相次ぎ、またジャズメンもそれ以前から様々な死を迎えていた。その頃から本書の構想が朧げにはあったということだが、決定的なきっかけは自身が今から14年前の3月に狭心症による心停止を経験したから…。

小川:それまで2回死にそうになった経験があるんです。小さい頃波に攫われて溺れかけたり、ロスで飛行機事故にあったり。それで3回目を経験して、そこでもう「じたばたしない、イヤなことは一切やらない、ストレスは溜めない」ということで、それ以降はやりたいことばっかりやってきました。でも"いつ死んでもいいや"となると、死ぬために生きてるんだな、死ぬために食べたり仕事をしたりしてるんだなって気がしてきたんです。それで"こういう本を書いたら…"とわりと長い間心の中に溜めていたものを「ジャズメン死亡診断書」という形でまとめてみました。

雨上がりのターンパイクに散った若き才能――クリフォード・ブラウン

小川:ということで、やっと本のお話に入るんですが、やっぱりドラマチックな亡くなり方をした人ということで、トランぺッターのクリフォード・ブラウンから始めたいと思います。この人は56年6月26日25歳で交通事故で亡くなったんですが、天才トランぺッターと言われて本格的にプロデビューしたのが1950年だからわずか6年間弱の活動ですね。フィラデルフィアに近いデラウェアという街の出身で、大学で数学を専攻していたけれどやっぱり音楽がやりたいというので、音楽のある大学に移ったそうです。彼はデビューした年の6月にも交通事故、それも三重衝突の事故に会っていて、なにか不吉な予感がしますね。僕は整形外科ですから、この人を鑑定したところ50年の事故で右肩の関節を脱臼してそれが元で習慣性肩関節脱臼になっている。今だったら内視鏡で簡単に手術できるんですけど、50年ですからそんな方法もなくて彼は手術を受けなかった。だからトランペットを吹いていても何かの折りに急に肩が外れてしまい、亡くなるまで肩関節脱臼には悩まされていたそうです。手術を受けなかったのは、手術をすると半年くらいはリハビリも含め肩が不自由になるから、それが多分イヤだったんじゃないかと思うんです。

 最初は地元フィラデルフィアのクリス・パウエルのブルー・フレイムスというリズム&ブルーズのバンドに入っていて、ニューヨークとかにも巡業で行って、そこでブルーノート・レコードのオーナーでプロデューサーのアルフレッド・ライオンという人の目に止まる。まだ22歳くらいのクリフォード・ブラウンの凄い演奏に早速レコーディングとなって、たまたまサックス奏者のルー・ドナルドソンのレコーディング・スケジュールが4?5日後にあったのでそこに彼を入れることになった。当初は「聞いたことも見たことも、しかも名前も知らないトランぺッターと演奏するのは嫌だな」とルーは思っていたのですが、スタジオでの凄い演奏を聞いて、こいつだったらいいやとレコーディングしたそうです。これがクリフォード・ブラウンの初レコードとなった。53年6月のことです。

 それ以降もブルーノートでいくつかのアルバムに参加するんですけど8月には初リーダー・レコーディングを行なってます。これは彼が亡くなった後に、先ほどのルーのレコーディング参加曲も含めて『クリフォード・ブラウン・メモリアル・アルバム』として出ています。そして54年2月にはジャズ・クラブ「バードランド」にブルーノートのオールスター・クインテットで出演し、その模様は名盤中の名盤『バードランドの夜』として残されています。その後はマックス・ローチ(Dr)と組んだブラウン=ローチ・クインテットで、54年にシカゴで創立されたエマーシー・レコードというレーベルと契約して、ジャズ史を飾る名盤をどんどん吹き込んで順調な活動を続け、名声も高まっていきました。

 そして1956年6月25日に、クリフォード・ブラウンは頼まれてフィラデルフィアのレコード店で地元のミュージシャンたちと演奏します。それを終えた夜、車でシカゴに移動することになった。シカゴのブルーノートというジャズ・クラブでブラウン=ローチ・クインテットで演奏する予定だったので、メンバーのリッチー・パウエル(バド・パウエルの弟)とその奥さんの運転で25日の夜シカゴに向かったんです。ところが雨が降った後で道が滑りやすくなっていたのか、車はスリップして事故を起こしてしまい3人とも即死。僕はそこのターンパイクに行ったことがあるんですけど、緩いカーブで事故なんか起こすような所じゃないんですよ。

 クリフォード・ブラウンが本格的な活動を始めてからわずか6年弱のことです。レコーディング・キャリアも3年くらいですが、ジャズの歴史に燦然と足跡を残した人で、もしこの人が生きていたらどうなっていたかわかりません。彼を一番脅威に思っていたのはマイルス・デイヴィスだったらしいです。で、劇的に亡くなる数時間前のフィラデルフィアでの演奏が音質は良くないんですが残っています。では、その亡くなる前日、最後の演奏から「ドナ・リー」という曲を聞いてみたいと思います。

「ドナ・リー」クリフォード・ブラウン

小川:この世を去る数時間前の演奏と言われているクリフォード・ブラウンの「ドナ・リー」でした。この「ジャズメン死亡診断書」には23人が載ってるんですけど、書いてるうちにどんどん暗くなって自分でも辛いんです。表紙はふざけてるって言われるかもしれないですけど、気持ちを明るくしたくて昔から知ってるラズウェル細木さんという漫画家さんにお願いして描いてもらいました。

こういった流れで、この後もロシアン・ルーレットで亡くなったレム・ウインチェスター、愛憎のもつれから亡くなったリー・モーガン、ニューヨークのイーストリバーで入水自殺をしたアルバート・アイラーらの"死亡診断書"が紹介された。

最後に本書には掲載されていないジャズメンということで、伝説のピアニスト守安祥太郎のエピソードが紹介された。

戦後まだ見よう見まねで皆がジャズをやっていた時代に、いち早くアメリカではジャズの主流になっていたビ・バップを取り入れて演奏していた一人。当日は小川さんが行った守安祥太郎を語る渡辺貞夫、五十嵐明要、原田忠幸の貴重なインタビュー音源も紹介された。

最後は55年9月山手線目黒駅で飛び込み自殺をした守安祥太郎にはきちんとしたレコーディングは残っておらず、アマチュアが録音したライヴが唯一の音源として存在するのみ。

その守安祥太郎、宮沢昭、清水潤、鈴木寿夫等による『モカンボ・セッション'54』は、黙って聞いたらアメリカのビバッパーの演奏だと思ってしまうような凄いビバップの演奏ということで、イベントの最後にはその中から11分を超える熱演「アイ・ウォント・トゥ・ビー・ハッピー」が紹介された。
●『ジャズメン死亡診断書』
小川隆夫著/四六判/312頁/本体価格2,000円+税/発売中
ISBN:978-4-401-64341-7