キング・クリムゾン(King Crimson)の
ロバート・フリップ(Robert Fripp)は1974年アルバム『Red』時代に書いていた50年前の日記を初めて読み返し、米Guitar World誌で、その日記をもとに『Red』について振り返っています。
「当時、日記をつけていました。書いてから50年が経ちますが、今日の午後、初めてそれを読み返しました。出版を念頭に置いて書いたものではなく、あくまで私的な日記で、いろいろなメンタルの訓練や、その日をどう過ごそうとしていたか、思考の流れや感情などを綴ったものです。
1974年7月8日(月)、レコーディング初日の記述はこうです。
“アイデア。皆に好きなようにやらせる。それは臆病さなのか?”
そして続けて、こう書いています。
“今日、私の人生は変わった。可能性の一端を垣間見た。そして支払うべき代償も。”
これは、あくまで自分自身に向けた個人的なメモです。続いて7月15日(月)には、こんな記述があります。
“(ビル・ブルーフォードの)ドラミングにいら立たせ始めている。意見を言うのを自制した”
そんな具合に、日記は続いています。
これは1974年7月24日(水)の記述です。
“ビル・ブルーフォードと口論。ビルは“それなら、いっそセッション・ギタリストを雇えばいい”と言っていた”」
Q:この頃には、バンド内の関係はやや不安定だったのでしょうね。
「ええ。私は何かの状況や出来事、あるいは取り組みを考えるとき、見解や判断に至るために当てはめる基準が4つあります。時間、場所、人、そして状況です。
1974年は、私が“リミナル・ゾーン(境界領域/※ある状態から次の状態へ移る途中にある不安定な領域)”に入り始めた時期でした。リミナル・ゾーンとは、ある点と次の点、あるプロセスと次のプロセスの“間”にある状態のことです。リミナリティ(移行状態)は、場所にも、時間にも、人にも、プロセスにも見いだすことができます。
リミナル・ゾーンとは、中間の領域です。リミナリティの特徴は、曖昧さ、危険性、そして機会の3つです。状況は未確定で、どちらにも転びうる。キング・クリムゾンにおいては、ロンドンでプロの音楽家として過ごした最初の7年(1967年から74年)が終わりを迎え、次の7年間の始まりに差しかかっていました。そこでキング・クリムゾンはいったん終わり、そして81年にキング・クリムゾンが再び始まります。ですから、『Red』の制作は曖昧で、危険性を帯びつつも同時に機会にも満ちていたのです」
Q:その「機会」というのは、音楽を作るという意味での機会ですか? それとも、変化に対する開かれた姿勢という意味でしょうか?
「キング・クリムゾンは73年の初めに、5人編成から4人編成に移行しました。デヴィッド・クロスが脱退した直後で、それは彼自身の意思も一因でしたが、特にジョン・ウェットンが、デヴィッドと一緒にこれ以上のキング・クリムゾンを続ける可能性を見出せなかったからでした。当時はこうした人間関係の緊張が存在していました。
私はデヴィッド・クロスのことがとても好きでした。しかし一方で、非常にエネルギッシュで常に動き続けるドラマーのビルと、驚くほどパワフルで次第に音量を増していくベーシストのジョンという、力関係が進化していく中で、ヴァイオリンのデヴィッドと私というフロントラインは、トップではなく、並び立つ立場を維持することすら難しくなっていたのです。
デヴィッドの楽器はヴァイオリンで、当時はアンプで鳴らすヴァイオリンなんて一般的にありませんでした。つまり、デヴィッドの音は聴こえなかったのです。本人にも自分の音が聴こえない。ステージ上ではジョン・ウェットンの音量があまりに大きく、エンジニアは客席側のPAからジョンの音を完全に外さざるを得なかったほどです。それでもなお、ジョンの音量を抑え込むことはできませんでした。こうした力学や緊張関係の中で、私たちはやっていたのです」
Q:そうしたフラストレーションが『Red』の重厚さとして表れたと言えるでしょうか。
「ええ、そう思います。それが作品に鋭さ(エッジ)を与えたんだと思います」
Q:『Red』の裏ジャケットを見ると、針がレッドゾーンに振り切れ、臨界点に達して今にも壊れそうな瞬間が写っていますよね。あれは『Red』制作時のクリムゾンの状態を象徴しているようにも見えます。日記も開いていることですし、当時の心境や、なぜ『Red』のリリース後にクリムゾンが解散するに至ったのか、当時の心境を語ってもらえますか?
「今、これを見返して、何が読み取れるかというと――こう言われている気がします。“おい、全開でやれ。可能な限り、限界まで行け。一切妥協するな”。
フリップ&(ブライアン)イーノの作品に『(No Pussyfooting)』(1973年)というアルバムがあります。そのタイトルは、レコーディングのセッション中に私が紙に書いた言葉から来ています。“妥協なし、及び腰になるな”という意味です。マネジメントやレコード会社がこれを気に入らないであろうことは分かっていたけれど、それでも引くな、ということです。つまり『no pussyfooting』は、ほとんど“crank”と同義でした。もし今日、『Red』に別のタイトルを付けるとしたら――私はこう呼ぶでしょう。『Crank』と。
当時、私の人生の方向性は、すでに別のところに向いていました。この時期の日記を読み進めるうちに、自分が隠遁へと向かっていく過程にあったのが見えてきたのです。
こんな記述があります。1974年7月13日(土)――“ロンドンからウィンボーンへ、母に会いに行った。そして、7月5日ごろ、ニューヨークから戻り、クリムゾンの最後の公演を終えた直後に、自分がこの業界を離れ、隠遁生活に入るべきだと悟った、と母に伝えた”。
母にそう話したところ、この言葉は覚えていなかったのですが、母はこう言ったのです。“どうしてうちの子は普通じゃないの?”(笑)
いずれにせよ、私にとってはクリムゾンを離れなければならなかった。しかし、それは必ずしもキング・クリムゾンそのものを終わらせなければならない、という意味ではなかった。そこで私にとっての問いは、いかにしてキング・クリムゾンを、本物のキング・クリムゾンとして――でも私抜きで――存続させるか、ということでした。日記の中には、そうした模索の痕跡がいくつも残っています。初期のひとつには、ELOと仕事をしていたヴァイオリニストに電話をかけ、彼がデヴィッド・クロスの代わりに入ってバンドを存続させられないか、という考えまで書かれていました。
それから、私が何度かスティーヴ・ハケットに電話をかけていて、スティーヴはもしかすると自分の代わりになれるギタリストかもしれない、と考えていたことがわかりました。こうした話し合いが同時進行で進んでいました。私はバンドやロード・マネージャーたちに対して責任を感じていたんです。彼らには彼らの生活があり、仕事がある。そのことに対する責任を強く感じていたのです。
しかし最終的に(マネージャーの)デヴィッド・エントーヴェンから、ロバート抜きのキング・クリムゾンには興味がないとはっきり告げられました。そこで私はビルとジョンに電話をして、“まあ、そういうことだ”と告げたのです。つまり、そういうことだったわけで、ビルは不満そうでした。当時のインタビューを読めば、いろいろな発言が見つかると思いますが……ビルは失望していたと思いますし、ジョンもそうだったと思います。でも、何と言えばよかったのでしょうか? キング・クリムゾンを別の形で前に進めるという案について、誰ひとりとして納得させることができませんでした」