英国の新聞ガーディアンは、世界中で評価が高い日本のハードコア・パンクの初期シーンを特集。英国では現在、1980年代から90年代初頭にかけてのアルバムが続々と再発されている中、DEATH SIDEのISHIYA、Lip CreamのMINORU、THE NURSEのNEKO、BASTARDのZIGYAKUがインタビューに答え、当時を振り返っています。
DEATH SIDEのISHIYAはこう振り返っています。
「“自分で何かをやりたい”という気持ちだった。パンクバンドなら誰でも始められた。安く楽器を手に入れて練習したけれど、上手くいかなくてヴォーカルになることにした。ハードコア・パンクは、10代の絶望的な怒りを表現するのにうってつけだったんだ。
社会や常識への反抗が基本姿勢だったから、当然、メインストリームの社会が受け入れないような見た目を選んだ。(かつてそびえ立つマゼンタ色のモヒカンをしていたと話す)
日本では同調圧力が非常に強く、見た目が違うというだけで差別的な扱いを受けた。電車では避けられ、仕事を探しても門前払いされた。まるで社会の敵のように扱われたよ。
(当時のシーンは)極めて暴力的で恐ろしいものだった。どのライヴでも誰かが血まみれになるほど殴られ、いつ自分がその立場になるか分からなかった。あの緊張感は日常生活では決して味わえないもので、スリリングだった。
基本的に、学校や会社といった“社会”と呼ばれるものに馴染めない連中は、みんな不良と呼ばれた。そういう連中が集まれば、暴力は自然と発生するものだと思う。
GISMの暴力的なパフォーマンスが、ハードコアのライヴは暴力的であるべきだという感覚を生んだ。それによって、ライヴは普通のルールが通用しない、一種の治外法権的な空間になったんだ」
BASTARDのZIGYAKUは、その見た目ゆえにライヴハウスから締め出され、仕事も失い、部屋すら借りられなかったという。彼は広島で活動したのち東京へ移り、たちまちこの街の混沌としたペースに魅了されたと振り返っています。
「最初に感じたのは、みんながとにかく飛ぶように生きているってこと(笑)。みんな狂ってるみたいだったから、じゃあ自分も狂った人間になろうと思ったんだ。ハードコア・バンドが山ほどいて、毎週そこら中でライヴがあった。時間はあっという間に過ぎていった。まるで日本の昔話に出てくる竜宮城みたいだったよ。
BASTARDは決して暴力的なバンドではなかったが、それでもトラブルは多かった。パンクは目立つから、警察やヤクザにすぐ目をつけられる。Cruck、Mad Conflux、Pile Driverと一緒に回ったツアーでは、どの街でも問題が起きたよ。パンクであることはマイノリティであり、そこに価値がある。もし日本の人口の半分以上がパンクになったら、もっとひどい世界になると思うよ!」
DEATH SIDEのISHIYAは、当時のシーンについて、こう続けています。
「(バンド間で)ライバル意識はあったけれど、互いを研ぎ澄まし合うような関係だったと思う。真っ向からぶつかり合いながら、お互いを高め合う、素晴らしい関係だった」
当時の日本のハードコア・パンクのバンドがなぜこれほどまでに独創的だったのかについてISHIYAは、こう話しています。
「音楽的な系譜が海外とは異なる。海外ではロックが一般家庭で流れるが、60~70年代の日本では考えられないことだった。
(彼は日本の音楽が歌謡曲、演歌、フォークといった穏やかな形態に根ざしていることを指摘し、ゆえにパンクは日本で、より鮮烈に燃え上がる運命にあったと説き)
反逆する者は、必然的に独自の方向へ進むことになる」