ワイルド・スタイル ©Pow Wow Productions, Ltd. All Rights Reserved
今ではヒップホップとして知られるようになったカルチャーの黎明期の様子を捉えた伝説的映画『ワイルド・スタイル』。脚本・監督・プロデューサーのチャーリー・エーハーンは英ガーディアン紙の新しいインタビューの中で、本作の誕生の経緯を振り返っています。
「リー(キュノネス)が描いた壁画の一つが、俺が1,000ドルで作った『The Deadly Art of Survival』に登場していた。彼に連絡を取ろうとしたんだが、彼は捕まえにくかった。俺のことを警察官だと思っていたか、あるいは逮捕されるような場に誘導するだろうと考えていたのだと思う。だから、俺のカンフー映画を見ていてリーとも知り合いだったファブ・ファイブ・フレディが声をかけてくれたときは、完璧なタイミングだったよ。
俺はティーンエイジャー向けに上映する映画を構想していた。地下鉄の落書きで警察に追われるアウトローを主人公にしたロマンスだ。レディ・ピンク(サンドラ・ピンク・ファーブラ)は、グラフィティ・アーティスト志望の若い子たちとつるんでいたんだけど、彼女を一目見て思ったんだよ、俺が“ローズ“レディ・バグ”と名付けたキャラクターだとね。俺はロンドンのチャンネル4とドイツのZDFにアプローチし、地下鉄車両(の落書き)のコピー、ヒップホップ・クラブのカセットテープ、そして企画概要の紙を同封した封筒をそれぞれに送った。それぞれが25, 000ドルを送ってくれて、それが唯一の資金源となった。
ブロンクスで1万人の若者が集まるヒップホップ・ジャムに参加した時、銃声が鳴り響いた。映画でも同じようなシーンを撮ろうと思った。壁にもたれていた何人かに声をかけて、強盗シーンに出てくれないかと頼んだ。一人にスターティングピストルを渡したら、彼は“そんなのは女の銃だ”と言って、車から映画で見たような短銃身ショットガンを取り出したよ。
ジャムでビジー・ビーに近づくと、彼はジョイントを吸っていて、そのまま俺をステージに連れて行き、“こいつはチャーリー・エーハーン。俺の映画プロデューサーだ”と皆に紹介してくれた。
やがてグランドマスター・フラッシュにも会った。彼はすでにスターだった。彼と彼のグループ、フューリアス・ファイヴのパフォーマンスを円形劇場で撮影したんだけど、音が歪んでいて使えなかった。コンサート全体を撮り直さなきゃならなかったが、彼はツアーに出ていて不在で、もう一度出てもらうことはできなかった。だから彼のライヴは映画には入っていない。まあ、そういうこともあるさ。
『ワイルド・スタイル』がタイムズスクエアで公開されたときは、俺は子どもたちに一人25ドル払って学校でチラシを配らせた。おかげで初回の上映では、劇場の周りを囲むほどの列ができた。日本で上映されたときは、観客はこれをSF映画だと思い、俺が新しい文化を発明したと勘違いされたよ。史上最高のヒップホップ映画だと言われることもある。少なくとも最初の一本であることは間違いない」
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