AC/DCが1990年にリリースした、低迷期からの復活を印象付けたアルバム『The Razors Edge』。初期アルバムをATCO RecordsからリリースしていたAC/DCは本作から同レーベルに復帰し、それが大きな成果をもたらすのですが、そのバンドのキャリアにおける分岐点となったこの移籍の舞台裏を、ATCO Recordsに復帰させた張本人であるデレク・シュルマンが自身の回顧録『Giant Steps: My Improbable Journey From Stage Lights to Executive Heights』で語っています。回顧録の抜粋がUltimate Classic Rockで公開されています。
デレク・シュルマンは、ジェントル・ジャイアントでの活動を終えた後、セカンダリーキャリアとしてレコード業界に転身し、ポリグラム、ATCO、ロードランナー・レコードなどのレーベルで重役を務め、ボン・ジョヴィ、ドリーム・シアター、スリップノット、パンテラなど多くのバンドと契約し、成功へと導きました。
以下、抜粋より
「ATCOはアーティスト本位のレーベルであり、音楽そのものに重点を置いていた。少なくともそれが私の目標だった。しかし私が参加した時点では、レーベルは独立会社ではなくアトランティック傘下のレーベルであったため、ワーナー・ファミリー内の他部門からの受け継ぎもあって、それが私たちのアーティスト獲得の方法のひとつだった。欲しいアーティストを確保するためには、ある程度のトレードも必要だった。
当時、AC/DCはアトランティック所属で、契約打ち切り寸前だった。彼らは下降線をたどり、1985年の『Fly On The Wall』以来、オリジナル・フル・アルバムをリリースしておらず、そのアルバムも失敗に終わっていた。ツアーでは会場を埋められてはいたものの、全盛期は過ぎ去り、夏場の野外ステージでパッケージツアーを回るレガシーバンドになってしまいそうに見えた。
それは残念なことだった。彼らは依然として素晴らしいライヴができるし、才能のあるアーティストであり、提供できるものはまだたくさんあると私は感じていた。彼らには挽回の機会が与えられるべきだと考えていたが、次のアルバムのためには100万ドルが必要で、会社にとってはそれが重荷になっていた。
“AC/DCを切っちゃだめです”と私は(当時のアトランティック・レコードの社長)ダグ・モリスに訴えた。彼がATCOを私に任せることに反対していたのを分かっていたので、できる限り丁寧に接した。彼は言った。“AC/DCにはもう何も残っていない。今の音楽業界の状況では成功する見込みもない”。私は言った。“何を言ってるです。AC/DCですよ。彼らはレジェンドだ”。すると彼はこう言った。“じゃあ、君がATCOに連れていって、本物のことをやらせてみたいなら、トレードって手があるかもしれない。ピート・タウンゼントをくれるなら、AC/DCを譲るよ。そうでなければ、彼らは切るつもりだ”と。
“話はまとまった”と私は言った。ピート・タウンゼントは当時、キャリアのなかでも壮大なコンセプトのソロ・アルバム期にあった。1989年には『Iron Man: The Musical』を作り、ピート、ジョン・エントウィッスル、ロジャー・ダルトリーが2曲で参加し、さらにニーナ・シモンやジョン・リー・フッカーといった特別ゲストも迎えたが、それでも失敗に終わった。誰もザ・フー以外の場でピート・タウンゼントがコンセプト音楽をやるのを聴きたがらなかったのだ。
対照的に、AC/DCは依然としてロックンロールの神様だった。適切なサポートがあれば、彼らはまたヒットアルバムを作れるはずだと私は思っていた。その時が来た。私はダグとトレードを成立させ、バンドと仕事をするという挑戦を楽しみにしていた。
AC/DCはそれまで一度もアトランティックの人間をスタジオに入れたことがなく、レコード会社のやり口に乗ることにも消極的だった。私自身がレコーディングやツアーを行ってきたアーティストという経歴があれば、彼らがこれまで相手にしてきたレーベル社員たちよりも、私には心を開いてくれるかもしれないと思っていた。彼らには、同じ土俵で戦ってきた味方として私を見てほしかった。内情を知る立場が功を奏すことを期待し、さらに彼らと関係を温められそうな繋がりもいくつか持っていた。
サイモン・デュプリー&ザ・ビッグ・サウンドにいた頃、私はイージービーツといくつかのフェスで一緒に演奏したことがあった。彼らはアンガスとマルコム・ヤングの兄ジョージ、そしてAC/DC初期アルバムを共同プロデュースしたハリー・ヴァンダを擁するバンドだった。
さらに、私はジェントル・ジャイアントのアルバムをプロデュースしており、プロデューサーと密接に仕事をすることがAC/DCにとって重要だとわかっていた。彼らのマネージャーたちとも面識があった。スチュワート・ヤング(エマーソン、レイク&パーマーも担当)と、ジェリー・ブロンの下で働いていたスティーブ・バーネット。私はスチュワートに電話して、AC/DCをATCOに移籍させる話をし、こう伝えた。“もし彼らがOKなら、スタジオにいるときにアンガスとマルコムと少し一緒に仕事をさせてもらえないかな”。ありがたいことに、彼らは快諾してくれた。彼らはアトランティックを離れることに大喜びだった。彼らを契約した人物がレーベルを去ってしまい、もはや会社との繋がりを感じていなかった。新しいレーベルのトップがビジネスだけでなく音楽を理解していることにも満足していて、サウンド刷新のために私と仕事をすることに興味を示してくれた。優れたプロデューサーが軌道修正に役立つと確信して、私はブルース・フェアバーンに電話した。彼はバンドとの仕事を依頼されたことに興奮していたよ。(AC/DCを嫌いな人なんているのか?)」