
Red Hot Chili Peppers - Dave Navarro era
1994年、脱退したジョン・フルシアンテの後任として
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(Red Hot Chili Peppers)に加入した
デイヴ・ナヴァロ(Dave Navarro)。1995年にアルバム『One Hot Minute』をリリースしますが、同作のツアー後に脱退しました。ナヴァロは米Guitar Worldの新しいインタビューの中で、レッチリ時代を振り返っています。
「チリ・ペッパーズは好きだったけど、特定の曲というより彼らの音楽性そのものに惹かれていた。フリーから電話があって、一緒にジャムセッションしないかって誘われたんだ。当時は友だち同士で集まって演奏するなんて普通にあったから、正直、“今日はこの連中とちょっと弾くだけだろう”くらいにしか思ってなかった。
数時間一緒に演奏した後、彼らは俺を呼び止めてバンドのメンバーにならないかと尋ねてきた。俺は当時、(ジェーンズ・アディクションの)エリック・エイヴァリーと一緒にディコンストラクションをやっていたけど、ツアーの予定はなかった。ディコンストラクションには長期的な計画が特にあるわけでもなかったし、ちょうどガンズ・アンド・ローゼズからのオファーも断ったところだったから、“まあ、こっちのほうが俺が育ったシーンに近い”と思ったし、それにチャド(スミス)やフリーと演奏できるのは興味深かった。だから“もちろん喜んで”って返事をしたんだ。
ギターへのアプローチ、音楽的素養、そして非常に結束の固いユニットである彼ら3人と音楽的にどうコミュニケーションを取るか、全てを学び直さなければならなかった。圧倒的で気が遠くなるような課題だったが、彼らのことも、楽曲も、そして各自の楽器における卓越した腕前も大好きだったから、やらないという選択肢はなかった。
それと同時に“この環境で自分のプレイ・スタイルをどう生かせばいいんだ?”という自問自答も始まった。彼らのサウンドは、俺が本能的に惹かれてきたものとは必ずしも噛み合わなかったので、この移行は本当に難しかった。
『One Hot Minute』の楽曲は必ずしも俺が書いたわけじゃない。どれもわりと共同作業だった。自然とエフェクトに頼るようになって、少しダークなプレイになった。
俺はもともと音を重ねるのが好きだし、録り方にも自分なりのやり方があった。でもそれは彼らの過去のギタリストたち、特にジョンとは全然違ったスタイルだったんだ。ジョンはとても利他的で、ほぼワンテイク、ワンギターだった。それに対して俺は、もっとメタル寄りのエッジを効かせた、よりスケールの大きいサウンドスケープが好きだった。俺のギタープレイのアプローチが加わった結果が、あのアルバムから聴き取れると思う。あのアルバムははまさに、バンドとしての自分たちのアイデンティティを探ろうとする4人の記録なんだよ。
誰かの代弁をするのはあまり気が進まないけど、率直に言って、ジョンを失いバンドを再始動させなければならなかったことで、他のメンバーは悲嘆の過程の最中にいたと思う。ああいう形でジョンを失ったことで、あのアルバム制作には積み重なった悲しみが伴っていたと思う。しかも、彼らの最大のヒット作を出した直後だったわけだからね。
彼らは完璧に調和した機械のような存在だった。だから、正直、居心地のいい経験だったとは言えない。俺の慣れ親しんだ方法とは完全に相反する環境に、いきなり飛び込むのは、本当に奇妙な感覚だった。
だから、あのアルバムは、俺らがどうやって噛み合えるのかを探っている記録だと捉えている。いろんな意味で、あのアルバムは、本来そのアルバムのデモであるべきだった。どの曲も全く新しい楽曲で、俺らはそれらと向き合い、熟成させ、ライブで演奏する経験すらなかった。
あのアルバムは、こうなり得たかもしれない姿への最初の挑戦だった気がする。結局そこには辿り着けなかったけどね。あと、余計なことを言うつもりはないが、アンソニー(キーディス)が自伝で触れていることなので、公知の事実を明かすけど、彼は当時、個人的に暗い時期を経験していた。
『One Hot Minute』には、聴けばはっきりわかる断絶がある。でも同時に、真の繋がりを感じる瞬間もある。別のやり方でやれていたら、自分が違うふうにやっていればよかったと心から思うところもある。でも、その一方で、これまでどんなバンドと録音した作品の中でも、最高だと思える瞬間がいくつもあるんだ。
(リリース後)チリ・ペッパーズの熱烈なファンと向き合わなきゃならなかった。俺がその役割にいることを気に入らない人たちが多かった。ジョンの役割を埋めているってことで、ファンからの反発もかなりあった。
その矛先が俺に向くのは、いつも不思議だなって思ってた。“ここに俺がいるのが嫌なら、彼らを責めてくれよ。俺が無理やり入り込んだわけじゃない。向こうが誘ってきて、俺はイエスと言っただけだ”ってね(笑)。
前作の成功を経て、このアルバムが冷ややかな反応を受けたことは、チーム全員に大きな影響を与えた。ファンからの反応は俺たちが望んでいたものではなく、方向性にも疑問符がついていて、その点でも俺が矢面に立たされたのは、繰り返しになるけど、不思議だと思っていた。
でも俺個人としては、俺が関わった中で最も成功したアルバムだったんだよ(笑)。間違いなくジェーンズ(アディクション)がそれまでに出したどの作品よりも確実に売れたし、プラチナム・ディスクを手にしたのは、俺にとって勝利に感じられた。でも彼らにとっては失敗に思えたらしくて、本当に奇妙な空気だったよ。
あのアルバムを要約するなら、それぞれ異なる背景を持つメンバーが、うまくやろうと全力を尽くした、極めて難しい状況だったと言えるだろう。期待を上回る成果を上げた部分もあれば、期待に応えられなかった部分もあった。
評価を見るかぎり――愛と敬意を込めて言うけれど――あの役割を埋めるのに、俺は適任ではなかった。とはいえ、自分の音楽性を広げるための特急コースを経験できたことには感謝している。唯一の問題は、それを世界中の目の前でやらなきゃいけなかったこと。居心地が悪かったよ(笑)。
結果的にギタリストとして成長できたとは思う。でも、もう一度人生をやり直した時、同じ選択をするかどうかは分からない。今にして思えば、チリ・ペッパーズよりもガンズ・アンド・ローゼズのほうが俺には合っていたのかもしれない。でも当時は、音楽的背景という意味ではチリ・ペッパーズのほうが自分に近かった。ただ、いざ同じ部屋に入って音楽的にフィットしようとすると、話は別だったんだ。
ジョンがチリ・ペッパーズにもたらした魔法が何であれ、俺にはそのタイプの魔法はなかった。結局のところ、俺はファンク・バンドにいるゴスっ子だったんだよ(笑)。何が噛み合ってなかったのかを突き詰めるなら、まさにそこだと思う。
どれだけ努力して、どれだけうまくいこうと願っても、俺たちは同じ音楽的な土台から来ているわけじゃないってことは、わりとすぐに明らかになった。多くの点で、自分が異質だと感じずにはいられなかった。アルバムを作り、ワールドツアーに出たけれど、彼らとはほとんど歴史を共有していなかった。
いちばんわかりやすく言うなら、本物のバンドと一緒にカヴァーバンドをやっていた、そんな感じかな(笑)。いろいろなスタイルがぶつかり合う、とても不思議な場所にいたんだよ」