
George Harrison & Friends / The Concert for Bangladesh
ジョージ・ハリスン(George Harrison)とラヴィ・シャンカルが共同で開催した、1971年のチャリティー・コンサートである『バングラデシュ難民救済コンサート』。
ピーター・フランプトン(Peter Frampton)は当日、客として会場を訪れていましたが、重度のヘロイン中毒だった
エリック・クラプトン(Eric Clapton)の代わりにフランプトンが出演する可能性があったそうです。フランプトンが舞台裏を米Guitar Playerの新しいインタビューの中で語っています。
「ジョージの公演はもともと見に行くつもりだったから、ギターが必要なら弾こうかと聞いたんだよ。でも、ギタリストは人数オーバーだったんだ。だから、公演の成功を心から祈ってると伝えて、観に行くよとも言ったよ」
それから間もなくフランプトンはジョージがマンハッタンに滞在中、夕食に招かれることになりました。
「その後、ピエール(ホテル)に戻って、彼はスイートルームに招いてくれた。窓辺に2本のエレキギターが置いてあって、小さなアンプが1、2台あった。ジョージが“ギターを弾いてみないか?”と尋ねたので、興奮を抑えながら“ああ、もちろん”と答えたよ。
すると彼は何も言わずに(『バングラデシュ難民救済コンサート』の)演奏予定曲を次々と弾き始めた。僕は頭の中は時速2万キロで回転してたよ。コンサートのギターパートがもう埋まってるのに、なんでこんなことをしているのか理解できなかった。
たぶん6曲~10曲は一緒に弾いたと思う。彼は僕がちゃんとついていけるかどうか確かめていたんだ。もちろん、僕は大丈夫だったよ。ビートルズの曲でついていけないなんて、ありえないだろ?」
フランプトンの困惑をよそに、ジョージはコンサート出演について一言も触れませんでした。その数日後、フランプトンは旅に出て、ハンブル・パイとして数公演を行いました。
一方、ニューヨークでは、8月1日の公演日が近づくにつれ、クラプトンをめぐる舞台裏のドラマが激化していました。クラプトンはヘロインの禁断症状に苦しみ、滞在中ずっと寝込んでおり、リハーサルには一度も参加できませんでした。
そして公演当日、フランプトンはニューヨークに戻ってきました。
「最初の(午後の)公演には間に合わなかったけれど、2回目(の夜の公演)は最初から観るつもりだったので、チケットとバックステージパスを受け取ったんだ。(午後の)公演を観終わった後、ステージ脇へ向かった」
そこでフランプトンは待っていたのは、予想外の反応でした。
「(ジョージの個人秘書)テリー・ドーランが僕を見て、目を大きく見開いたんだよ。彼は“どこに行ってたんだ!?”と言うので、僕は“どういう意味? ツアーに出てたよ”と言った。そしたら彼は“君と連絡が取れなかったんだよ!”と言い、それから“ジョージが君と話したがってる!”と言ったんだ。
で、彼が僕をバックステージに連れていく途中で、突然ボブ・ディランの目の前に引っ張り出された。ディランはまるで“手の甲ひと振りでお前の首をはねてやる”みたいな目つきで僕を見たんだよ」
ドーランがフランプトンをジョージのもとへ連れて行くと、ジョージが状況を説明しました。クラプトンが演奏できそうにない様子だったのです。
「あの頃は彼が薬物に深く依存していた時期だった。彼が薬物を使用していたのか、それともやめようとしていたのかはわからない。でも彼がリハーサルに参加できなくなった時、彼らは僕を呼び出そうとした。万が一に備えて僕にいてほしかったんだ。
僕はジョージとテリーに聞いたんだ。“つまり、僕に演奏してほしいってこと?”。そしたら彼らは“ああ”と答えた」
結局のところ、公演を撮影するために雇われたクルーのカメラマンがクラプトンにメサドン(強力な鎮痛剤)を提供し、そのおかげで彼は2つの公演でどうにか演奏できる状態になりました。
「エリックがどうにか演奏できてよかったよ。もし彼が演奏できなかったら、多くの人が──特にジョージが──とてもがっかりしていたはずだから。
エリック・クラプトンの代役にはなりたくなかった。もしジョージから直接連絡が来て、状況がもっと深刻だったら引き受けただろうね。でも実際どれほど切迫していたのかは、僕には永遠に分からない」