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80年代 米国上院に未成年者にふさわしくない音楽作品と批判されたアリス・クーパー、ジューダス・プリースト、W.A.S.P.が当時の闘いを回想

2025/10/07 13:51掲載
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Parental Advisory - USA
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1980年代、未成年者にふさわしくないとされた音楽作品に「ペアレンタル・アドバイザリー」のステッカーを貼るように義務付けるなどの運動を行った委員会PMRC。いわゆる「ワシントンの妻たち」と闘いを繰り広げたアリス・クーパー(Alice Cooper)ジューダス・プリースト(Judas Priest)ロブ・ハルフォード(Rob Halford)W.A.S.P.ブラッキー・ローレス(Blackie Lawless)は、英ガーディアン紙の特集で、この闘いを振り返っています。

事の発端は、1980年半ばに、11歳のカレナ・ゴアが購入したプリンスのアルバム『Purple Rain』でした。収録曲「Darling Nikki」の歌詞に過激な性的表現が含まれていると感じたカレナの母親ティッパー・ゴア(当時は上院議員で、のちに副大統領となるアル・ゴアの夫人)が、これを問題視したことがきっかけとなり、委員会PMRC(Parents Music Resource Center(ペアレンツ・ミュージック・リソース・センター)が設立されました。米メディアはこの委員会を「ワシントンの妻たち」と呼びました。

PMRCの妻たちは夫の力を利用して上院で「ポピュラー音楽の憂慮すべきコンテンツに関する」公聴会を開催させるように働き掛け、1985年9月に公聴会が開催されました。

ブラッキー・ローレスは「最初のうちはPMRCなんて、たいして気にしていなかった。ところが、その後、とてつもない影響力を持つようになり、独り歩きし始めたんだ」と振り返っています。

公聴会に向けPMRCは、性描写・暴力・薬物・アルコール・オカルト・卑語といった「問題のある」要素を含む「最も不愉快な15曲」のリストを作成しました。プリンスはアーティスト、作詞家、プロデューサーとして3曲に関わり、リストにはマドンナ、シンディ・ローパー、AC/DC、ブラック・サバス、モトリー・クルー、デフ・レパード、ジュダス・プリースト、トゥイステッド・シスター、W.A.S.P.も含まていました。

ロブ・ハルフォードは「ニュースでこの動きを追っていたので、驚きではなかった。とはいえ、“民衆の敵”呼ばわりは、やりすぎだったけどね」と振り返っています。

PMRCのキャンペーンに非難を表明したのは、「最も不愉快な15曲」リストに載っているミュージシャンだけではありません。キャリア初期に激しい非難を浴びたフランク・ザッパとアリス・クーパーも、PMRCが検閲の拡大を隠蔽するための手段として機能していると見て抗議しました。

クーパーは、政府の行き過ぎた介入と批判しました。「それはまるで、子供たちにこう言っているようだった。“君たちはそれに対処するだけの賢さがないんだから、それを見たり聞いたりしてはいけない”。もし本当に暴力的だったりひどい内容なら、親と子どもの間で話し合うべきことであって、政府と子どもが話すことではない」。

上院公聴会が始まると、ザッパ、ジョン・デンバー、トゥイステッド・シスターのディー・スナイダーの3人が反対側の証人として証言しました。しかし、全米レコード協会(RIAA)は公聴会終了前にPMRCと合意し、RIAAは「問題のある」内容を含むアルバムに「ペアレンタル・アドバイザリー」ステッカーを貼ることにしました。これによりウォルマート(当時米国最大のレコード小売店)を含む一部小売業者では、このステッカーが貼られた音楽作品の販売を拒否する事態に発展しました。

ハルフォードは「当時、強硬派がウォルマートを追い詰めたため、彼らに選択肢はなかった。どのレーベルも売り上げに打撃を受けたと思うよ」と語っています。

一方でローレスは、PMRCの上院公聴会によって危険にさらされたのは彼のキャリアだけでなく命でもあったと主張しています。

「アメリカには“この連中がいなければ世界はもっと良くなる”と考える層がいて、殺害の脅迫を受けるようになったし、実際に俺は2度、銃で撃たれた。幸いにもコンサート中ではなかったけど、演奏中に誰かが重いガラス瓶を投げつけ、それが俺の頭頂部に直撃して、頭皮が裂けてしまったこともあったよ」

クーパーとローレスは、ティッパーがPMRCを設立した動機は、1987年に民主党の大統領候補指名獲得を目指す夫の選挙運動の支持基盤を築くためだったと主張しています。

ローレスは「マッカーシーが赤狩りを利用して権力を拡大したように、これはミュージシャンが子供たちの寝室に性的倒錯やオカルトを持ち込んでいると示唆することで、政治的な基盤を構築するためのキャンペーンだったんだ」と語っています。

クーパーは「全体的に、見下した態度で愚かなものだと感じた。それに、アルバムにペアレンタル・アドバイザリーのステッカーを貼ったことは、結局は逆効果で、子どもたちが、そのアルバムを欲しがるようになってしまったんだ」

PMRCは1990年代半ばに正式に解散しましたが、その遺産は、多くの米国のアルバムに引き続き使用されている「ペアレンタル・アドバイザリー」ステッカーに見ることができます

ハルフォードは言う。

「世界は今、危険な時代を迎えている。歴史が繰り返されるのを目撃するのに十分なほど俺は長く生きてきた」