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ヴァン・ダイク・パークス、ブライアン・ウィルソンについて語る

2025/06/18 14:30掲載
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Van Dyke Parks and Brian Wilson, photo by Mark Hanauer
Van Dyke Parks and Brian Wilson, photo by Mark Hanauer
ブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)の重要なコラボレーターのひとり、ヴァン・ダイク・パークス(Van Dyke Parks)が英ガーディアン紙の新しいインタビューの中で、ブライアンについて語っています。

「ビートルズの広報担当者デレク・テイラーが最初に“ブライアン・ウィルソンは天才である”と宣言したのは(1966年の)宣伝キャンペーンの一環だった。私はその言葉がブライアンを悩ませ続けることになると思っていたし、実際そうなった。それ以来、彼はより高い期待が寄せられる世界で戦わなければならなかったが、彼は生涯を通じて勇敢にそれに立ち向かった。彼は基本的に過去の自分自身とずっと競争していたが、偉大なアメリカのビート詩人ルイス・マカダムスが言ったように“不可能でなければ興味がない”という姿勢だった。歌詞に関して言えば、♪僕は海に浮かぶコルク~(“Til I Die”の一節)ほどビーチ・ボーイズの考えをうまく表現したものはない。私はそれを“天才”と呼ぶし、その言葉はブライアンにふさわしいと思う。

彼には多くの才能があった。その一つは相互の力を引き出すことだった。彼は周囲の人間の最高の部分を引き出した。スタジオで、大きな緊張感の下で、ピアノとベース、おそらく数本のギターだけで彼ができることは、暗い部屋に入って光と生命を吹き込むようなものだった。彼は祝祭的な精神の持ち主だったが、人生には暗いコーダがあった。ある種の精神疾患の重荷を背負っていた。私はそれが薬物によるものだとは思わない。遺伝的なものだったんだと思う。彼は深く掘り下げる能力を持っていた。彼は規律ある精神的な力を持ち、教会で祈りを捧げ、音楽の専門用語を学び、バーバーショップ・カルテットからカリプソ、作曲家、ガーシュインまであらゆるものを愛し吸収し、“アメリカーナ”という表現が生まれた時代に成長し、これらすべてを新しいポップの形に組み上げた。

同様に、ローマが燃え、ベトナムが燃えていた時代、彼は前向きな社会的影響力を持っていた。セルマ(アラバマ州、公民権運動のデモ中)では人々が放水され、パニックと不安と暗殺が相次でいたが、そんな背景の中で私たちはブライアン・ウィルソンの音楽という活力を得た。今週末に州上院議員が撃たれて倒れるのを彼が見なくてよかったと私は思う。

ブライアンとはずっと連絡を取り合っていた。私と妻のサリーは、ブライアンと彼の二人の妻たちと親しくしていた。私たちの友情は何十年にもわたり、彼の様々な人間関係や周囲の人々を包含していった。彼を失ったことは本当に辛く、空虚感が残る。しかしブライアンは与えられた環境で花を咲かせ、彼の音楽は、もはや存在しないアメリカを記録したものだった。彼は山を動かし、言葉を変えた。必要ない時でさえ私に親切に接してくれた。人々が彼の音楽は驚くべきものだと言うとき、私もそう思う」

またブライアンと初めて会った時のことを、こう話しています。
『Good Vibrations』を制作している時でした。

「アレンジャー、あるいはアレンジャーを目指すミュージシャンとして採用されるかと思っていたが、ブライアンが私に用意していた仕事は全く違った。突然、私は作詞家になっていた。当時、私はブライアン・ウィルソンのことを何も知らなかったし(私はビートルズファンでした)、作詞は私の専門ではなかった。

ビバリーヒルズにあるブライアンの大邸宅にバイクで向かったところ、警官に止められて、こんな高級住宅街で何をしているのかと尋ねられた。警官は私の話を信じず、ブライアンの玄関まで同行した。ブライアンが応対すると、その警官の姉がデニス(ウィルソン)と付き合っていたことが判明し、すべてはうまく収まったが、ブライアンはもっと目立たない車が必要ではないかと私に尋ねた。当時、ボルボは最も安全な車だった。翌日、ボルボを購入するための5,000ドルの小切手が、何の条件も付けずに私の手元に届いた。彼のことはほとんど知らなかったが、信頼によって良いことが起こることもある」

未完成アルバム『SMiLE』については、こう話しています。

「ブライアンがどれほど意識的に『Pet Sounds』を超えようとしたかはわからないが、彼は既存の枠にとらわれないことを望んでいた。リビングルームの砂場にピアノを置いたことは、彼の狂気の表れではない。それはポップアート的な表現であり、彼の素晴らしいユーモアのセンスによるものでもあった。彼はサーフボードを捨てて、さらに前進したいと考えていたので、僕はいたずら心で“Surf's Up”というタイトルを提案した。少し悪ふざけだったが...いとこのマイク・ラヴ(ビーチ・ボーイズのボーカル兼共同作詞者で、ウィルソンとパークスの実験的な試みに必ずしも好意的ではなかった)も、そんなタイトルには反論できなかった。私はブライアンが当然の評価を受ける瞬間を手助けしたかった。

歌詞はフランク・ホームズというアーティストに触発された。彼の絵に興味を持ったので、その絵のイメージを忠実に表現しようと努めた。この歌詞は、コンサートに参加して啓示を受ける男性について歌っている。たくさんの曲を作ったが、フランク(後にアルバムのジャケットアートを手掛けた人物)も、僕がこのアルバムのタイトルを『Smile』にしようと提案したことを証言している。

レコーディングセッションでは、ブライアンがピアノを支配していた。ミュージシャンは入れ替わり立ち替わりだったが、キャロル・ケイ(ベース)は非常に重要な存在だった。優雅で素晴らしい、そのセットで唯一の女性プレイヤーで、彼女は多くの曲で演奏した。デニス(ウィルソン)は僕に親切で、カール(ウィルソン)はブライアンが直面していることを理解し、彼の自由への探求を促進する傾向にあった。しかしブライアンは自費でアルバムを作るために奮闘しなければならなかったため、バンドのメンバーは脅威を感じたり、自分の存在が軽視されていると感じたのかもしれない。私は去った」