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ワイト島フェスティバルの創設者が誕生の経緯を語る プール建設費を集める目的で始動/ディラン出演までの経緯/ジミヘンの都市伝説他

2025/06/12 19:14掲載
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Isle of Wight Festival 1970 (Getty)
Isle of Wight Festival 1970 (Getty)
英ワイト島で行われている野外音楽フェスティバル<ワイト島フェスティバル(The Isle of Wight Festival)>。1968年から1970年にかけて開催されたオリジナル版の共同創設者であるレイ・フォークは、同フェスの誕生の経緯を英ガーディアン紙の新しいインタビューの中で振り返っています。

「1968年、僕が22歳の時、兄のロニーが島のプール建設のための資金集めの仕事を得た。僕はCND(核軍縮キャンペーン)のコンサートをやったことがあったので、何かフェスティバルを開いて資金を集めようと話した。弟のビルは、それならポップ音楽でやるべきだと提案した。ロンドンの代理店からはプリティ・シングス、ザ・ムーブ、フェアポート・コンヴェンション、ティラノザウルス・レックス、そしてアメリカのジェファーソン・エアプレインなどのアーティスト・リストが提供された。僕たちはワイト島室内プール協会から750ポンドの出資しか得られいなかったが、友人が1,000ポンドの軍人退職金を貸してくれたおかげで、すべてのバンドをブッキングすることができ、1万枚のチケットを売り切りって、収支を合わせることができた。その間、プール協会はヒッピーやドラッグ、セックスに関する報道を好ましく思わずに撤退した、でも、彼らは出資金の使用を許可してくれた。後で返済したよ。

1968年の最初のイベントはかなり粗末なものだった。ステージは平べったいトラックの荷台を並べただけのもので、ケータリング業者には、ぼったくられた。僕たちは翌年、きちんとやろうと再挑戦することを決めた。ロニーはクリスマスにボブ・ディランのアルバム『John Wesley Harding』を聴き、ディランのようなアーティストが島に人を集めるだろうと主張した。彼はアンダーグラウンドの雑誌からディランのマネージャー、アルバート・グロスマンの電話番号を入手し、電話をかけた。ディランは1966年のオートバイ事故以降、パフォーマンスを行っていなかったので、最初はうまくいかなったが、僕たちは諦めずに電話をかけ続けた。グロスマンはディランのカムバックはウッドストック・フェスティバルで大々的にやりたいと考えていた。でも2人は仲たがいしていて連絡を取っていなかった。その間、僕はグロスマンのパートナーであるバート・ブロックと仲良くなり、ある水曜日の夜、ディランがワイト島で演奏することに同意したという電報が届いた。宝くじに当たったような気分だった。彼は僕に契約書にサインするためにニューヨークまで来るよう求め、“ドルを忘れるな”と言っていた。

僕たちには資金がなかったため、様々な金持ちに声をかけた。スクリーン・ジェムズ・ヨーロッパの責任者はディランの大きな影響力を理解し、僕たちに出資することに同意してくれた。

突然、15万人もの観客を動員する大規模なイベントとなった。ジョージ・ハリスンとパティ・ボイドが滞在し、ジョン・レノンとリンゴ・スターも当日到着した。ボブ・ディランがビートルズの3人とテニスをしている姿は、今でも忘れられない。

1970年までに、僕たち3人は大物プロモーターに成長し、多数のスターをブッキングできるようになり、その年のイベントには50万人以上の観客が集まった。ザ・フーのパフォーマンスは圧巻で、ジョニ・ミッチェルは見事な演奏を披露した。保釈中のドアーズのジム・モリソンは、薄暗い中で陰鬱ながらも奇妙に心を打つセットを演奏した。1970年のイベントを撮影したマーレイ・ラーナーの(ドキュメンタリー)映画(1996年公開)では、このイベントが惨事だったという誤った描写がされている。確かに、クリス・クリストファーソンはブーイングを浴び、ウッドストックのような無料のフェスティバルを望んでいた過激派とのトラブルはあったが、ほとんどの観客はイベントを大いに楽しんでいた。ジミ・ヘンドリックスが炎上するステージで演奏したというのは都市伝説で、実際は花火だった。これが彼の最後の英国公演となり、18日後に彼は亡くなった。

僕たちは常に、市議会議員たちから“若者が茂みでセックスしている”や薬物問題などについて苦情を言われて対立し、1970年以降の新規制によりフェスティバルの再開は不可能になった。それでも、キャンプを特徴とする現代のフェスティバルの原型を創り上げたと思う。2002年、10代の頃に1970年のイベントに参加したジョン・ギディングスがフェスを復活させた。現在のワイト島フェスティバルはよく組織されたエンターテインメントの祭典だが、60年代は、世界をより良い場所にすることを歌ったカウンターカルチャーのアーティストたちを見に行く巡礼の場だった」