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ノラ・ジョーンズが長年疎遠だった父ラヴィ・シャンカールと再び連絡を取り合うきっかけはジョージ・ハリスン 父親との関係や自身のルーツについて語る

2025/06/04 19:53掲載(Last Update:2025/06/05 08:56)
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Norah Jones
Norah Jones
ノラ・ジョーンズ(Norah Jones)は18歳の時、長年疎遠だった父親のシタール奏者ラヴィ・シャンカール(Ravi Shankar)と再び連絡を取り合うようになりました。そのきっかけはジョージ・ハリスン(George Harrison)でした。米ヴァニティ・フェア誌の最近のインタビューの中で、父親との関係、自身のルーツについて語っています。

Q:20歳の時にジャズミュージシャンになるためにニューヨークに移る前、テキサスで母親と暮らしていましたが、父親のラヴィ・シャンカールとは疎遠でした。彼の音楽を知っていましたか? またジョージ・ハリスンが彼とツアーを共にし、アメリカのロックファンに彼を紹介したことは知っていましたか?

「9歳までは年に1回ほど会っていましたが、10歳か11歳になるまで父の音楽について、あまり意識していませんでした。その後、18歳まで再会することはありませんでした。会う時は、たぶんどこかのホテルで、幼い頃はインドにも2回ほど行きました。父の楽器が置いてあるのを見かけましたが、特に気にも留めていませんでした。でも、ビルボード・ミュージック・アワードでジョージ・ハリスンが父についてスピーチをしたのを見て、初めて父の音楽に興味を持ちました。

18歳の時、父に会いに行き、再び連絡を取り合うようになりました。良い関係を築きましたが、非常に複雑で、私が有名になるにつれて、その複雑さは百万倍になりました。父との関係について書かれるようになりましたが、そのほとんどが正確ではありませんでした。私が何を言っても、家族の一方が悲しむ状況でした。

父と再会した時、私はインドのルーツとつながりを感じましたが、それでも私はいつも少し偽物のような気がしていました。私は本物のインド人でも、本物のミュージシャンでも、ポップミュージシャンでもありません。では、なぜ私はここにたどり着いたのか? フォークでもカントリーでもなく、厳密にはジャズミュージシャンでもない。多くの異なる影響を受けながら、周辺部にいるような感覚です。それが強みなのかもしれません」

Q:テキサスで育った感想は? カントリーやウェスタンミュージックの歴史は豊かですが、ジャズやソウルはどうでしたか?

「私はテキサスの悪い面を見たことがありません。育った地域には大きなメキシコ系コミュニティがあり、みんな私をメキシコ人だと思っていました。スペイン語を話せなかったので、がっかりさせそうでした。私は半分インド人ですが、インド文化に囲まれて育ったわけではありません。(テキサスには)豊かで多様な音楽コミュニティがあります。私が通っていたダラスの芸術高校では黒人歴史プログラムがあり、黒人ミュージシャンたちが私のヒーローでした。彼らは皆、教会で演奏しながら育ち、生涯音楽と共に生きていて、私にとって彼らは別次元の存在でした。子供の頃、私は教会で賛美歌を歌っていました。12歳でピアノのレッスンをやめた後、ジャズミュージシャンになることに集中しました。ビッグバンドのコンサートを見てサックスのレッスンを始め、サラ・ヴォーンやビル・エヴァンス、ビリー・ホリデイを聴くようになりました」

Q:ビリー・ホリデイに似ていることを自覚していましたか?「Come Away With Me」を初めて聴いたときに、真っ先にそう思いました。

「高校時代、ビリー・ホリデイのように歌おうと必死でした。学校の発表会では彼女を演じて“Strange Fruit”も歌ったこともあります。でも後になって、誰かの真似じゃなく自分らしく歌いたいと思うようになりました。ある友人が“テキサスっぽさがすごく出てる”と言ってくれて、“へえ、それってクールじゃない”と思いました。ジャズシンガーはテキサスっぽさとは結びつかないから、それが私の小さな個性になりました。昔の曲を歌っても自分らしさを出せると気づいた最初の瞬間で、サラ・ヴォーンやビリー・ホリデイみたいな大好きな歌手のように歌うんじゃなくて、そのまま進もうって思いました」