【update:2025/05/28 03:48】
妻のジェンダは
TMZに対して、リック・デリンジャーが亡くなったことを認め、医療処置が行われた後、生命維持装置を外され、安らかに亡くなったと語っています。TMZの報道によると、死因は突然の心臓発作でした。
TMZによると、デリンジャーの長年の友人であり世話人でもあったトニー・ウィルソンは「(デリンジャーは)2カ月前に、3つの冠動脈にバイパス手術を行ったが、経過は良好だった。週末もまったく問題なかったが、昨夜、彼はベッドに寝ようとして、お気に入りの枕に手を伸ばしていたところ、突然何かのショック状態に陥り、その後、病院で亡りました」と述べています。
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【オリジナルの投稿】
60年に及ぶキャリアを持つギタリスト/シンガーソングライター/プロデューサーの
リック・デリンジャー(Rick Derringer)が死去したと報じられています。彼の友人でコラボレーターの
カーマイン・アピス(Carmine Appice)も訃報を伝えており、また
英国の新聞インデペンデント紙や
米Guitar Player誌は、デリンジャーの長年の友人であり世話人でもあったトニー・ウィルソンがFacebookでこの訃報を伝えたと報じています。同紙によると、デリンジャーは5月26日、妻のジェンダとウィルソンに見守られながら息を引き取りました。デリンジャーはここ数ヶ月、健康状態が悪かったようですが、死因は明らかにされていません。デリンジャーは77歳でした。
以下、カーマイン・アピスのSNSアカウントより
「安らかに眠れ。俺の良き友人、リック・デリンジャー。俺たちは素晴らしい会話をした。君を本当に恋しく思う。俺たちは素晴らしい音楽を一緒に作った。大好きだよ、兄弟。彼は本当は惜しまれるだろう。ジェンダー、君がどれだけ悲しんでいるか知っている。お悔やみ申し上げます」
インデペンデント紙によると、ウィルソンは声明で、「デリンジャーのレガシーは、音楽だけにとどまらず、彼の特徴的なエネルギーと才能でファンを魅了し続けました。彼の死は音楽界に大きな空白を残し、ファンや同僚、そして愛する人たちに深く惜しまれることでしょう」と述べています。
リック・デリンジャー(本名リック・ゼーリンガー)は1947年5月オハイオ州生まれ。1962年、ハイ・スクール時代に、弟のランディや共にザ・マッコイズを結成。デリンジャーが17歳の時、1965年にデビュー曲「Hang On Sloopy」をリリースし、米ビルボード誌のシングル・チャートで1位を獲得した。その後、いくつかのヒットを放つがバンドは1969年に解散した。
同年、ジョニー・ウィンターのアルバム『Johnny Winter And…』のプロデュースを担当し、彼のバックも務める。その後、ジョニーの弟エドガー・ウィンターとも活動を共に、プロデュースを務めたエドガー・ウィンター・グループの「Frankenstein」は全米1位を記録した。
1973年には初のソロ・アルバム『All American Boy』をリリース。このアルバムは全米アルバム・チャートで25位の好成績を残す。シングルカットされた「Rock and Roll Hootchie Koo」はヒットした。
1976年、リックはダニー・ジョンソン、ケニー・アロンソン、ヴィニー・アピスと共にデリンジャーを結成し、アルバム『Derringer』をリリースした。
79年に再びソロ・アーティスとなり、そのかたわら、その腕を見込まれて多くのアーティストのレコーディングにスタジオ・ミュージシャンとして参加した。その代表とも言えるのがスティーリー・ダンの1979年の楽曲「Rikki Don't Lose That Number」で、ドナルド・フェイゲンが書いたこの曲の「リキ」とはリックがモデルになっている。
また、プロレス団体のWWFが企画したアルバム『The Wrestling Album』(1985年)及び『Piledriver: The Wrestling Album II』の制作にも参加し、デリンジャーが提供した曲「Real American」は最終的にはハルク・ホーガンのテーマ曲となった。
1980年代は、主にプロデューサーとしての活動が目立ち、特にマイケル・ジャクソン「Beat It」のパロディとして大ヒットしたアル・ヤンコビックの「Eat It」が有名である。
1982年、カーマイン・アピスのバック・バンドの一員として初来日。1986年にはシンディ・ローパーなどのバックを務めた。また、旧友エドガー・ウィンターと共に1989年に来日している。
2000年代に入ると、家族との音楽活動も行うようになり、ファミリー・バンド、デリンジャーズとしても作品を発表していた。