
Michael Hurley Photo: Sarah Taft
1960年代にグリニッジ・ビレッジのフォーク・シーンで頭角を現し、アウトサイダー・フォークの伝説となったシンガーソングライターの
マイケル・ハーレイ(Michael Hurley)が死去。ハーレイの家族が米ローリング・ストーン誌に声明を出し、ハーレーがテネシー州ノックスビルのビッグ・イヤーズ・フェスティバルの出演を終えて戻った後、オレゴン州アストリアの自宅で亡くなったことを発表しています。ハーレイは83歳でした。
以下、声明より
「ハーレイの家族は、比類なきマイケル・ハーレイの突然の逝去を、深い悲しみとともにここに発表いたします。“フリーク・フォークのゴッドファーザー”と呼ばれた彼は、半世紀の間、風変わりな天才と慈愛に満ちたウィットを提供していました。彼こそが唯一無二のスノック(Snock)でした。彼に匹敵する者は他にいません。友人、家族、そして音楽コミュニティは、彼の死を深く悼んでいます」
1941年に生まれたハーレイ(愛称スノックを好んで名乗っていた)は、ペンシルベニア州バックス郡で育つ。成人してからは、後にヤングブラッズのフロントマンとなるジェシ・コリン・ヤングを含む他の若者たちと家を共有していた。
ハーレイは20代の頃、ニューヨーク市に移り住み、伝説的なグリニッジ・ビレッジのフォーク・シーンに欠かせない存在となる。ハーレイは1964年、デビューアルバム『First Songs』をFolkwaysレーベルからリリースした。このアルバムは、当時盛り上がりを見せていたフォークミュージック界に異端児として登場したハーレイの象徴となった。
1965年にFolkwaysのモー・アッシュから100ドルを手渡され、次のアルバムはレコーディングスタジオで制作するよう勧められたものの、ハーレイはそのお金を支払いに充てた。その後、数年間はボストン近郊でさまざまな仕事を転々としたが、ある日、ヤングが録音機材を持ってアパートに突然現れた。ヤングブラッズはワーナー・ブラザーズのレーベル、Raccoonを獲得しており、ハーレイを支援することを決めた。ハーレイはRaccoonから1971年の『Armchair Boogie』と1972年の『Hi Fi Snock Uptown』という2枚のアルバムをリリースした。ハーレイはその後10年以上をバーモント州で過ごし、スキーリゾートで時折演奏していた。
1976年の元旦、ハーレイはHoly Modal Roundersとともにアルバム『Have Moicy!』をリリースし、その作品はThe Village Voice誌のロバート・クリストガウなどから高い評価を受け、大きな反響を呼んだ。
その後数十年にわたり、ハーレイはRounder、Rooster、Bellemeade、Blue Navigatorなどのレーベルからアルバムをリリースし続けた。最終的にはバーモント州を離れ、あちこちを転々とする生活を送った。
その後、キャット・パワーやヨ・ラ・テンゴなどのアーティストがハーレイの楽曲をカヴァーし、彼にインスピレーションを受けたことを公言するようになり、彼が2000年頃にオレゴン州アストリアに落ち着く頃には、当時流行していたフリークフォーク・シーンの新進気鋭のスターたちを含む熱狂的なカルト的なファン層を獲得していた。 再発盤、回顧録、短編ドキュメンタリー映画が制作された。
晩年、ハーレイは実験的なフォークミュージックのアンダーグラウンドで貴重な存在となった。2021年、80回目の誕生日を数日後に控えたハーレイは、インディーズレーベルのNo Quarterから、最後のアルバム『The Time Of The Foxgloves』をリリースした。