
David Johansen and Sami Yaffa in 2009 (Image credit: Getty Images/Brian Rasic)
【追悼デヴィッド・ヨハンセン】
ハノイ・ロックス(Hanoi Rocks)での活躍でも知られる
サミ・ヤッファ(Sami Yaffa)は、2004年から2009年までの6年間、
ニューヨーク・ドールズ(New York Dolls)のベーシストを務めました。フロントマンだった
デヴィッド・ヨハンセン(David Johansen)の訃報を受け、追悼文をMusicRadarに寄稿しています。
「“フィンランド出身なのか?みんなアル中なの?”
ニューヨークで初めて彼に会ったとき、デヴィッドが俺に言った最初の言葉はそれだった。
そうやって2004年の夏にニューヨーク・ドールズに加入した。
当初は数回のライヴだけのつもりだったが、オリジナル・ドールズの3人目のメンバー、アーサー・"キラー"・ケインが悲しい死を遂げた後、デヴィッド、シルヴェイン・シルヴェイン、スティーヴ・コンテ、ブライアン・デラニーとの6年間にわたるツアーとレコーディングに変わった。
俺たちはアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、南アメリカ、オーストラリア、中国、日本、ロシアをツアーして、最高に楽しかった!
デヴィッドとシルと一緒にバンドにいるのは、まるで(米国のお笑いコンビ)アボットとコステロ、あるいは(米国のコメディ俳優グループ)マルクス兄弟とツアーしているようなものだった。ツアーから帰ってくると、いつもお腹が痛くなるほど笑い転げて、夜更かししすぎて頭が痛くなったりしていた。
この旅は6年間続き、その間に、素晴らしいスタジオ・アルバムを2枚、俺たちのライヴの腕前を証明するライヴ・アルバムを1枚制作した。
このバンドの一番良かったところは、お互いに対する愛情を持っていたこと、そして作曲プロセスや自分の楽器で何を演奏するかについて完全にオープンであったこと。すべてがぴったりと噛み合っていた。
デヴィッドはロックンロールだけを聴いていたわけではないし、俺もそうではなかった。俺たちはナミビアの結婚式の音楽や古いブルース、フラメンコ、60年代のガールズグループ、バルカン半島のジプシー音楽で意気投合していた。
デヴィッドは愛情深く、気難しく、寛大で、協力的で、不機嫌で、賢く、気難しく、博識で、本当に最高に面白かった。
俺は今でも、彼のようなユーモアのセンスを持つ人に出会ったことがない。間違いなく、その辺のパブにいるような普通のオヤジではない。
俺が『Sami Yaffa Sound Tracker』という小さなテレビ番組を制作した際、もちろんデヴィッドに番組のニューヨーク編に出演してもらえないか尋ねた。彼は快く引き受けてくれ、両手を広げて飛びついてくれた。信じられないほど素晴らしいインタビューをしてくれたが、番組ではその一部しか放送されなかった。2時間ほど話したと思う。デュオで“Heart Of Gold”をアコースティックで演奏しようと提案してくれたのは彼の方だった。
彼は俺の1日、1週間、1ヶ月、1年、人生を変えた。
1974年、俺が11歳くらいの時に、ドールズの最初のアルバムを聴いて度肝を抜かれた。
当時はスレイド、アリス・クーパー、スウィート、ボウイ、T・レックスなどを聴いていた。
ドールズの最初のアルバムを聴いて、それまで聴いていた他の素晴らしいバンドのすべてに疑問を抱くようになった。
そして、バンドの写真を見た。まさに度肝を抜かれたよ。
その最初の衝撃の後、彼らは忽然と姿を消したように思えたので、あまり聴かなくなった。
その後パンクが現れ、ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズがピストルズとザ・クラッシュとツアーをすると、昔のドールズのアルバムが再び俺のレーダーに引っかかった。
作詞家として、デヴィッドは別格で、まさに名人だったと思う。
彼やバンドのメンバーたちと過ごした6年間、そして名曲を演奏し、新曲を書いたことは、言葉では言い尽くせないほど誇りに思っている。バンドをやっていてこんなに楽しかったことはなかった。
俺が旅立つその時まで、俺は彼を恋しく思うだろう」