HOME > ニュース >

シンディ・ローパー 「最も苦労した曲」「最も誇らしく挑発的な瞬間」「最も勇気ある曲」について語る

2024/11/19 16:55掲載
メールで知らせる   このエントリーをはてなブックマークに追加  
Cyndi Lauper - Photo by Ruven Afanador
Cyndi Lauper - Photo by Ruven Afanador
シンディ・ローパー(Cyndi Lauper)はvultureの新しいインタビューの中で、「最も苦労した曲」「最も誇らしく挑発的な瞬間」「最も勇気ある曲」について語っています。

■最も苦労した曲

「私がまだ最初のグループ、ブルー・エンジェルでポリドールに所属していた頃、彼らは“I'm Gonna Be Strong”をカヴァーさせたがっていて、コーラス・アレンジを加えようとしていた。私は“絶対にダメ。そんな風には歌わないし、そんなことはしない”と言った。“I'm Gonna Be Strong”の何が特別だったかというと、その親密さ。一度、くだらないものをすべて積み重ねてしまうと、親密さはもうなくなってしまう。ただのガラクタの山になってしまう。ホイットニー・ヒューストンが“I Will Always Love You”を歌ったとき、くだらないものは何もなかったことを覚えていますか? 胸が張り裂けそうなほど感動しましたよね。 たくさんのガラクタを乗せてしまったら、そんな感動は絶対に感じられないでしょう。 だから私は戦ったんです。 本物でありたい、現代の音楽を作りたいという思いからでした。それに、私たちの曲はキャッチーだった。ちょっとしたキャッチーなフックを加えると、曲が良くなった。夏やハッピーなことを思わせるような曲だった。それから、ブルーエンジェルの皆の心が開き始め、私たちは本当に素晴らしい小さなバンドになった。みんながハードロックに行くたびに、私はそれを引き戻して戦っていた。みんなは私が何のために戦っているのか理解していなかったけど、私はそれを現代的なものにしたかった。新しい音楽を作りたかった。だって、イギリスから来るすべてのものは素晴らしかったから。私はその音に自分を合わせたいと思った。それは私にとって刺激的だったから。

『She’s So Unusual』を制作した頃には、スタジオには男性ばかりだったけど、私はなんとかしてその中に割り込んでいった。彼らは、それが商業的に成功するとは思っていなかった。まあ、いろいろあったけど、それでも私は曲を作りたかった。私が一番苦労したのは、最後の曲“Time After Time”を書くことだった。ロブ・ハイマンと曲を書き始めた時、いつもとは違う感じがした。“Time After Time”(のベースは)かなり早く書き上げることができた。彼と電話で歌詞を書いていたんだけど、まだサビはできていなかった。私は小さなスタジオアパートメントに座りながら、こう考ええていた。“大きな曲にしたい”と。すると、肩に手が触れたのを感じた。そこには誰もいなかったんだけど、それが私を落ち着かせてくれた。そして、私はただ書き始めた。“もし君が落ちたら、私が受け止める。私は待っているよ、何度でも”と。少し不気味でしょう?

“Time After Time”というタイトルはテレビガイドから取った。『Time After Time』という映画が放映されていたのよ。“Time After Time”という曲名がどれくらいあるのか調べてみたら、たくさんあった。フランク・シナトラもすでに同じタイトルの曲を持っていたので、このタイトルは使えないなと思った。でも、それを削除しようとするたびに、全体がバラバラになってしまった。それで、そのまま残して、ロブと会話をして、経験したことについて話し合った。私は彼が言ったことや私が目にしたことをすべて書き留めた。ひとつ例を挙げると、リック・シャートオフ(『She’s So Unusual』のプロデューサー)はスタジオに立って“時計が狂っていて、逆回転している。ほら、秒針が逆回転してるよ”と言っていた。私はなんて素晴らしい一節だろうと思い、それを“Time After Time”で使ったんだけど、彼はまったく気づいていなかった。

実際、あらゆる場所にゲートキーパー(妨げる人)が今でも大量にいるし、それを相手にするには、一歩下がって、常に回避策があることを知っておく必要がある。いちいち彼らと戦う必要はない。ゲートキーパーを回避する方法は常にある。味方を見つける必要がある。そうすれば、自分のやりたいことができるのよ」





■最も誇らしく挑発的な瞬間

「“Girls Just Want to Have Fun”のミュージックビデオにママに出てもらったときね。私は“ママ、ママが出てくれれば、変化を起こすことができるの”と伝えた。80年代の初め、母親と仲が良くないことが当たり前になりつつあった。でも、自分の母親や祖母の歴史を理解しないのは大きな問題。自分がどこから来たのかを知らなければ、同じような過ちを何度も繰り返すことになる。私がどんどん有名になってコンサートを行うようになって、客席を見渡すと、娘や孫と一緒にいる、おばあちゃんたちの姿を目にした。おばあちゃんたちは、さまざまなラインストーンを身に付けて、娘たちは頭の横にスプレーでペイントしていた。彼女たちの子供たちは、まあ、私を怖くしたような感じだった。初めて自分が良いことをした気がした。私は3世代の女性たちを結びつけたのね。私にとって、それはこの世で最も大切なことだった」



■最も勇気ある曲

「まず“True Colors”でその矢面に立った。当時はまだ、エイズについて公然と議論することはあまり一般的ではなかった。1997年頃、私はメールを読むようになった。遠く離れた誰かと、こうして何度もやりとりができるなんて素晴らしいと思った。まるで『スタートレック』のカーク船長になったような気分だった。それは苦しんでいる人たちからのメールだった。“True Colors”が癒しの曲であることは知っていたけど、LGBTQコミュニティにそれほどまでに受け入れられているとは、その時はまだ気づいていなかった。

もちろん、私はこの曲をエイズで亡くなった友人や、彼を失った遺族や友人たちのために歌った。しかし、メールで何度も目にするようになったのは、家族や友人、職場から疎外され、自殺を考えるようになった人々の話で、この曲を聴いて生きようと決意したというものだった。私はなんてことだと思いました。そこで、LGBTQコミュニティに属し、活動家でもある姉妹に電話して、“時が来たら、私たちはここで何かをしなければならない”と言いました。それがTrue Colors Unitedとの旅の始まりでした。私は世界に貢献できたことを幸運だと思っています」