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アリス・イン・チェインズのジェリー・カントレル、初期グランジ・シーンの発展について回想/故レイン・ステイリーとの関係についても

2024/10/02 13:36掲載
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Alice In Chains
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アリス・イン・チェインズ(Alice In Chains)ジェリー・カントレル(Jerry Cantrell)はリック・ベアトの最新インタビューの中で、初期グランジ・シーンの発展について振り返り、数多くのシアトルのバンドが積み重ねた「小さな勝利」がニルヴァーナやパール・ジャムの躍進への道筋を作ったと語っています。

「興味深い時代だった。素晴らしい音楽がたくさんあった。音楽はすでに80年代後半には変化しており、僕たちの町だけでなく、世界中で、よりヘヴィで攻撃的な要素が加わっていた」

カントレルは、80年代後半のシアトル周辺は「バンドだらけだった」と振り返り、ジミ・ヘンドリックス、ハート、クイーンズライクといったバンドがいたことで、すでにこの街にはロックの伝統があったと指摘しています。

「ずっと活気のあるシーンだった。音楽や芸術が盛んな土地だった。それに少し片田舎な場所だったから、誰からも干渉されずに熟成し、発展する時間があったことが大きな要因だったと思う。僕らが注目されるまで、誰も(シアトル含む米国北西部)ノースウェスタンのことを気にかけていなかった。

何かが起こっていると感じ、実際に自分もその一部となっていた。19歳や20歳の若者にとっては、それはかなりクールな気分だよ」

アリス・イン・チェインズはグランジ・バンドでは初めてゴールドレコード(50万枚の売り上げを意味する)を獲得したことをインタビュアーが指摘すると、カントレルは、他のバンドもそのコミュニティに注目を集め、仲間たちの地位を高めるために一役買ったと素早く指摘しています。

「僕らはMTVをある意味で開拓した最初のバンドだった... でも、(シーンを)そんな小さな世界で見ることはできない。だって、サウンドガーデンのレコードや彼らのビデオがあったしね。マザー・ラヴ・ボーンも本当に重要なバンドだったし、マッドハニーも、それ以前にはグリーン・リヴァーもいた。彼らみんなが小さな足がかりだった。

一緒に仕事をしていなくても、僕らは皆、それぞれが個人として、またグループとして、次々と成功を収める中で、お互いに助け合っていた。 そういう計画がされていたわけではないけれどね。 僕らの成功のひとつひとつが、より大きなものへとつながっていき、ある臨界点に達して、パール・ジャムやニルヴァーナが誕生したんだよ」

またカントレルは同じインタビューの中で、故レイン・ステイリー(Layne Staley)との関係についても打ち明け、「彼が死んでしまったことはとても寂しいけれど、一緒に過ごした時間や一緒に作った音楽には感謝しているんだ。僕たちが一緒に始めた伝統を僕はこれからも続けていくよ」と誓っています。

「僕らには、2人とも好きな音楽はたくさんあったけど、それぞれに非常に個性的な好みを持っていた。彼が好きなもの、僕が好きなものがそれぞれあって、その中間にあるものをたくさん共有していた。彼は本当に不思議な能力を持っていて、誰かのアクセントを一度聞いただけで真似できたり、映画のセリフを聞いたらそのままの言葉で繰り返したり、ジョークを言ったりしていした。彼には、そういう模倣力があったんだ。

彼もハーモニーが好きだったし、僕もそうだった。一緒に曲作りを始めた当初は、自然の成り行きに任せていた。ただ曲を作って、自分たちの音楽のスタイルを見つけようとしていた。他のアーティストの真似を1年ほど続けた後、ようやく“おぉ、これはちょっとクールじゃないか? これこそ自分たちの音楽かもしれない”と思えるものに出会った。

どのバンドにも言えることだけど、本当に自分らしいと思える最初のアルバムを作るまでの、自分自身を見つけようと試行錯誤する期間はどれくらい続くものなのか。バンドによっては、2枚目、3枚目のアルバムまでそうした時期が続くこともある。でも、僕らに関しては(デビューアルバム)『Facelift』では、90~95%くらいは自分たちの音楽に集中できていたと思う。すべて自分たち自身ではあるけれど、まだ捨てきれていないものや、古い皮膚のようなものが残っていた。

僕たちは自分らしいと思えるものを作ったことを共有していた。それは僕たちが一緒に作り上げたものであり、今でもそれを演奏し続けることで、僕はいい気分になるし、彼のことを思い出すこともできる。もちろん、彼が死んでしまったことはとても寂しいけれど、一緒に過ごした時間や一緒に作った音楽には感謝しているんだ。僕たちが一緒に始めた伝統を僕はこれからも続けていくよ」

足がかりだ