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フェアーグラウンド・アトラクション「Perfect」 誕生の経緯をエディ・リーダーとマーク・ネヴィンが語る

2024/09/11 13:35掲載
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Fairground Attraction / The First of a Million Kisses
Fairground Attraction / The First of a Million Kisses
フェアーグラウンド・アトラクション(Fairground Attraction)が1988年にリリースしたデビュー・シングル「Perfect」。全英シングルチャート1位の大ヒットとなったこの曲の誕生の経緯について、エディ・リーダー(Eddi Reader)マーク・ネヴィン(Mark Nevin)が英ガーディアン紙の新しいインタビューの中で改めて語っています。

●エディ・リーダー(シンガー)

「80年代半ばには、私はすでにバックシンガーとしてかなり成功していました。ギャング・オブ・フォーと『The Old Grey Whistle Test』に出演したり、ユーリズミックスやアリソン・モイエと『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演したりしていました。 私は見習い期間を終えて、音楽業界の裏側をある程度知りました。その不安定さも。

私は、ある人のアルバムでバックヴォーカルを歌った縁で、その人が用意してくれた場所に住んでいました。私は少し退屈していたので、自分なりの表現方法が必要でした。その後、マークと知り合い、彼の曲を何曲か作り始めました。

80年代のロボットのようなミュージシャンたちの中で、私たちは本物でありたいと思っていました。私はエディット・ピアフに夢中でした。あの心の痛みや感情的なコミットメントに惹かれたのです。トム・ウェイツが表現したように、人生のジャンクショップの中で愛を見つけることについての曲を書きたかったんです。マークが“Perfect”を持って来た時、私は“悲惨なことがあった後に、みんなを元気づける曲になりそう!”と思いました。ロカビリー調で、エルヴィスっぽいところもある。素晴らしい曲。私の両親はエルヴィスの大ファンでした。

“Perfect”には喜びと本物感があります。“そうなんだよ、これが欲しいんだよ”という曲です。人間は常に欲しい、欲しい、欲しいと望むものです。人々は“Perfect”を聴くと幸せな気分になります。

レコード会社がこの曲を最初のシングルにすると決めたとき、私たちは少し不安になりました。私たちの他の作品とはかなり違っていたので。私は成功の輝きに魅了されたわけではありません。ポール・マッカートニーに会えたことは嬉しかった。無料のシャンパンを飲み干し、レコードを全部盗み、レコード会社の電話を使ってアメリカやカナダにいる叔母たちに電話をかけたことも楽しかった。でも、結局はすべてを支払うことになるだろうとも思っていました。

“Perfect”のおかげで受け取った最大の小切手は14,000ポンドだったと思います。私はそれを住宅ローンの頭金にしました。“Perfect”は私の人生を変えたわけではありません。ただ、人生の一部を豊かにしてくれただけです」

●マーク・ネヴィン(ソングライター、ギタリスト)

「この曲はフェアーグラウンド・アトラクションが結成される前に作ったもの。僕はロンドンのクリックルウッドにある湿気の多いベッドルーム付きのアパートに住んでいた。ガールフレンドがいたが、何も進展しなかった。ある朝、僕はキッチンに座って歌詞を書いた。“中途半端な恋愛はしたくない。本当に僕のことを思ってくれる人が必要だ”と。すぐに最初の2つの節と、たぶんタイトルも“Perfect”と書いた。でも、それは今とはまったく異なる曲で、もっとダウンビートでレゲエっぽい曲だった。僕はそれをノートに書き留めておいた。

それから1年か2年後、僕はオハイオ州アクロンに住み、庭師として働いていた。 ガールフレンドはいたが、うまくはいかなかった。 僕はアパートのベッドに座り、この古い曲をもう一度見直すことにした。 そして、サビの部分に来たとき、僕は思わず“パーフェクトだ!”と叫んだ。まるで、ずっと前からそこにあったような気がしたんだ。

ロンドンに戻ってからは、エディ・リーダーと一緒に活動を始めた。彼女がアリソン・モイエなどのバックコーラスを務めるツアーに出る合間にね。ギターを持ってダウンタウンに行き、当時オルタナティブ・キャバレーと呼ばれていたシーンで演奏していた。パブの片隅では、コメディアンや曲芸師、歌手などがパフォーマンスをしていた。エディはエディット・ピアフやパッツィ・クラインが大好きだったので、彼女の歌はドラマチックで歌姫っぽいものが多かった。僕は“Perfect”が陽気な曲なので、彼女は気に入らないだろうと思ったんだけど、とりあえずテープに録音して聴かせたんだ。すると驚いたことに、彼女は“ちょっと待って、私たちでそれをやるべきよ”と言ったんだ。

初めてライヴで演奏したのは、たしかダルストンのデューク・オブ・ウェリントンというパブだったと思う。3回目のサビに入る頃には、観客全員が一緒に歌っていた。その反応は即座だった。終わってから、ある人が僕のところに来て“あの曲は1位になるよ!”と言った。その数か月後、本当に1位になった。シュールだよね。

サム・フォックスやミック・フリートウッドが出演したあのひどい授賞式で、僕たちはブリット・アワードを2つ受賞した。テレビ史上最低の番組だった。僕たちの名前が発表されたけど、僕たちはステージの近くにはいなかった。その夜、僕たちは最優秀シングル賞と最優秀アルバム賞を受賞した。史上初めてだった。その後、アデル、コールドプレイ、ブラーだけがそれを成し遂げている。

“Perfect”は自然にヒットに結びついた曲で、僕たち全員を驚かせた。あれから何年も経ち、ハッピーバースデーやオールド・ラング・サイン(“蛍の光”の原曲であるスコットランドの民謡)のようになった。誰が作ったのか知らなくても、多くの人がこの曲を知っているんだ」