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デイヴ・メイスン、スティーヴ・ウィンウッドらトラフィックのバンドメイトとの確執を語る

2024/09/04 15:51掲載
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Dave Mason / Only You Know & I Know
Dave Mason / Only You Know & I Know
トラフィック(Traffic)デイヴ・メイスン(Dave Mason)は、スティーヴ・ウィンウッド(Steve Winwood)らトラフィックのバンドメイトとの確執を率直に綴った回顧録『Only You Know & I Know』を海外で9月10日に発売します。英ガーディアン紙では、トラフィックのバンドメイトとの確執を、本からの抜粋と、メイスンへのインタビューで特集しています。

1968年12月、メイスンはトラフィックのバンドメンバーとのミーティングに呼び出されました。メイスンによると、スティーヴ・ウィンウッドはすぐさま彼に4つの冷たい言葉を浴びせたという。

「君の作曲のやり方は好きじゃない。君の歌い方も好きじゃない。君の演奏も好きじゃない。そして、君にはもうバンドにいて欲しくない」

メイスンは「ショックだった。僕にとって究極のバンドだったからね」と回想しています。また、メイソンはその後、ソロ・アーティストとしてヒット曲を次々と発表したにもかかわらず、トラフィックは自分にとって「逃がした魚は大きい」存在であると回顧録の中で明言しています。

メイスンがトラフィックと繰り広げた闘争は、数十年にわたって断続的に続きました。

メイスンは10代後半にロンドンに移り住み、当時勃興しつつあったロック・シーンで注目を集めます。彼は、ドラムを演奏し、作詞も手がけていたジム・キャパルディと親しい友人となるなど、トラフィックのメンバーとは結成前から交流がありました。

1967年春、ウィンウッドがスペンサー・デイヴィス・グループを離れてより冒険的なグループを結成しようと決意したとき、彼は一緒にジャムセッションをしたことのある何人かの仲間、すなわち、キャパルディ、メイスン、そしてマルチ・インストゥルメンタリストのクリス・ウッドに声をかけました。

メイスンは「スティーヴ・ウィンウッドがいたから、僕らが結成しようとしていたバンドがヒットするのは明らかだった。問題は“いったいどんなサウンドにしようか?”ということだった」と振り返っています。

それを発見するために、彼らは都会の雑踏を離れ、田舎の荒れ果てたコテージを借りました。彼らのこの行動は、後にボブ・ディランやザ・バンドがウッドストックで、フェアポート・コンヴェンションがイングランドの田舎で同様の試みを行う先駆けとなりました。

メイスンが当時書いた曲は、他のメンバーが書いていたものよりも空想的で、よりポップ志向でした。トラフィックのデビューアルバム『Mr. Fantasy』は、結成から8か月後に発表されました。メイスンは、英国最大のヒット曲となるポップでサイケデリックな「Hole in My Shoe」を作詞作曲し、自ら歌いました。この曲は、ウィンウッドとキャパルディの「Paper Sun」を抑えて2位に輝きました。 成功を収めたにもかかわらず、メイスンはデビューアルバム発表直後に脱退するという衝撃的な決断を下します。「時代を超えて愛される曲を書くためには、もっと人生経験が必要だと気づいたんだ」と彼は語っています。

他のバンドメンバーが彼の決断に肩をすくめて反応したという。しかし、数ヶ月後、トラフィックの残りのメンバーがセカンドアルバムに取り組んでいたとき、彼らはアルバムを完成させるのに十分な新曲がないことに気付きました。この当時、メイスンは怒涛の勢いで曲を書いていました。おそらくは便宜上の理由から、トラフィックは彼を呼び戻し、セルフタイトルの2作目のアルバムの完成を手伝ってもらうことにしました。このアルバムのために、メイスンは名曲「Feelin’Alright?」を含む半分の曲を歌い作曲しました。

メイスンの作曲の腕が上がり、バンドの自信も高まっていたため、メイスンはバンドとの将来に大きな期待を抱いていました。しかし、それからわずか2ヶ月後に彼は解雇されました。

メイスンは現在、この解雇は、彼がバンドの最も有名な曲のいくつかを書いたことに対する嫉妬から生じたものだと考えているという。

「僕は彼らのお金を盗んだわけでもなく、彼らのガールフレンドを奪ったわけでもない。他に何が理由になり得るのかわからない」

メイスンは、後に彼らがマスコミに語った理由、つまり、彼が彼らの望むよりもポップ色の強い曲を書いていたこと、そして、彼らが一緒に作曲していたのに対し、彼は一人で作曲していたことなどは、ただの言い訳に過ぎないと考えているも話しています。 特に、それまで親しい友人であったキャパルディの自分に対する冷たさに彼は傷ついたという。

その後、1971年、メイスンはトラフィックとまた厄介な遭遇をすることになります。信じられないことに、トラフィックは彼を再び招き入れ、6回のライヴからなるイギリス・ツアーを行いました。このツアーからライヴ・アルバム『Welcome to the Canteen』が生まれました。険悪な過去があったにもかかわらず、なぜ彼らは彼を再び招き入れたのかと尋ねられたメイスンは「おそらくレコーディングの義務を果たすためだろう」と推測しています。

1990年代には、メイスンとキャパルディは再会し、ニューヨークのボトムラインでの公演を含むツアーを行いました。その夜、ウィンウッドは観客席に姿を見せました。キャパルディはメイソンに気にするなと警告していたにもかかわらず、公演の終わり頃、メイソンはウィンウッドにステージに上がって一緒に演奏するよう頼みました。ウィンウッドはそれに応じましたが、明らかにそれを喜んでいませんでした。ウィンウッドをステージに誘うことで意図的に挑発したかと尋ねられたメイスンは、「もちろん! いや、そんなことはどうでもいい。これは僕のライヴで、僕のステージだ」と答えています。

2003年、トラフィックがロックの殿堂入りを果たした際には、さらに険悪な状況に陥りました。パフォーマンスのパートでは、メイスンは、ジャムバンドとしての彼らの役割を強調するために、“Dear Mr Fantasy”でウィンウッドとギター・デュエットをしたいと提案しました。しかし、ウィンウッドはギターを1人で演奏することを主張し、メイスンをベースに追いやりましたが、メイスンはその仕事は拒否しました。「スティーヴ・ウィンウッドのショーになりつつあった」とメイスンは語っています。

その確執は死後も続きました。キャパルディの死後かなり経った2017年、メイスンは雪解けの兆しを感じ、トラフィックの名前でウィンウッドとツアーをしようと提案しました。ウィンウッドは、キャパルディが死の床で二度とトラフィックの名前でツアーをしないよう約束させたと述べ、その提案を拒否しました。

「死の床でそんな約束を迫るなんて、まったく奇妙だ」とメイスンはキャパルディの要求について語り、「(目的のために手段を選ばない)マキャベリ的だよね」と付け加えています。

メイスンは現在、バンドの昔の楽曲の再演をフィーチャーした<トラフィック・ジャム・ツアー>で全米を回っています。彼はウィンウッドから連絡を受けていないという。

メイスンは公の場でフラストレーションをぶちまけてしまったことで、彼自身も傷つきやすくなってしまったが、そうすることで心の平穏を得ることができたと著書の中で書いています。

彼はトラフィックの他のメンバーについて「ある意味では、彼ら全員を憎むこともできた」と言い、しかし、「そうした機会がなければ、僕がその後やってきたことをする基盤は得られなかっただろう」とも語っています。そして「僕は恨みを抱く人間ではないが、忘れる人間でもない」とも。