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カジャグーグーのヒット曲「Too Shy」の誕生についてリマールとニック・ベッグスが語る

2024/08/13 14:31掲載
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Kajagoogoo
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カジャグーグー(Kajagoogoo)のヒット曲「Too Shy(邦題:君はTOO SHY)」(1982年)の誕生について、ソングライターのニック・ベッグス(Nick Beggs)とヴォーカリストのリマール(Limahl)が英ガーディアン紙の新しいインタビューの中で語っています。

プログレ好きのニック・ベッグスらがスターを求めてリマールを迎えて曲を書き、デュラン・デュラン(Duran Duran)ニック・ローズと(Nick Rhodes)の出会いを機に成功を収めるまでを語っています。

■ニック・ベッグス(ベース、ソングライター)

「リマールが加入する前は、僕たちはアール・ヌーヴォーという名前だった。僕たちは皆、プログレッシブ・ロックの大ファンだったけど、当時は、そのような音楽を好むことはポルノ・コレクションを持っているようなもので、口外してはいけないことだった。ニューロマンティックの時代で、僕たちはXTCやディーヴォなどの影響を取り入れようとしていた。僕たちは労働者クラブのバンドHandstandsでカヴァー曲を演奏することでアール・ヌーヴォーの資金を調達していた。地元のパンクスたちは僕たちを嫌っていた。あるライヴでは、僕たちが良いドラムを持っていたので、彼らに全員ボコボコにされた。

(英BBCの名物DJ)ジョン・ピールが僕たちの曲“Fear Machine”を流してくれたけど、僕たちの歩みには何の変化もなかった。僕らにはスターが必要だった。クリス(リマール)は完璧だった。僕たちは公営住宅で“Too Shy”の歌詞のアイデアを交換した。僕の歌詞は、ほとんどラップのような言葉数の多いものだった。リマールは“それは多すぎる”と言ったので、彼はそれを大幅に簡略化した。僕は2番目のヴァース(Bメロ)を思いつき、彼は“Hey girl, move a little closer”の部分を書いた。

僕たちはデモをあらゆる大物に送った。(デヴィッド・ボウイのプロデューサーである)トニー・ヴィスコンティは“このバンドとは仕事をしたくない。私は生きる伝説なんだ”と言っていた。大手レーベルは相手にしてくれなかった。(デュラン・デュランの)ニック・ローズがEMIに持っていったデモは、彼らが却下したものと同じものだったけど、ミリオンセラーのポップスターが再び提示したことで、彼らは耳を傾けた。スタジオでニックが“ポップソングの途中でジャズギターソロを入れるなんて無理だ”と言ったので、スティーブ(アスキュー、ギター)が別のものを考え出したんだ。

イントロのベースラインのことは今でもよく言われるよ。スチュアート(ニール、キーボード)がフェードインする美しいポルタメント・コードを作っていたんだ。僕はそれをジャズの音符で装飾しただけ。レコード会社は曲の長さに神経質になっていたが、ラジオDJはイントロを気に入ってくれた。イントロでDJがトークを入れることができるからね。

音楽誌が僕らをけなせばけなすほど、僕らのアルバムの売り上げは伸びた。その後、すべてのものがあっという間にゴールドからクソになってしまったが、僕らは全員が作曲者であり、アレンジに貢献し、プレイヤーとしても個性的だったんだ」

・・・・・

■リマール(シンガー、ソングライター)

「ブリクストンのパブでトリオのステージを見ていたら、司会者が“誰か歌ってみないか?”と尋ねた。友人が僕を小突いた。“歌いたいんだろ?”。僕はビートルズの“Yesterday”を歌った。6人の観客はスタンディングオベーションしてくれた。帰り道、僕はずっと“僕は歌えるぞ”と思っていた。

バンドを組もうとしていたとき、メロディ・メイカー誌でレイトン・バザードのミュージシャンたちがシンガーを探しているという広告を見た。
失うものは何もなかった。顔に白と黒の塗料を塗り、アーティスティックな髪型をして、変人みたいな格好で電車に乗った。じろじろ見られるのは好きだったんだ。ニック(ベッグス)が駅で出迎えてくれて、彼らがリハーサルをしていたバースデーカード工場まで車で連れて行ってくれた。一度に1音しか鳴らないモノフォニック・シンセサイザーを使っていたけど、音は面白かったし、見た目も気に入っていた。

ニックのアパートで“Too Shy”を思いついた。彼は“Too shy, shy, hush hush, eye to eye”というサビを持っていて、僕はそれがかわいく聞こえた。 友人のビジネスマンが1万ポンドを投じて新しい機材を揃えてくれたので、デペッシュ・モードと同じ機材を手に入れたことで僕たちのサウンドは一変した。

ある夜、ロンドンのエンバシー・クラブで働いていたとき、デュラン・デュランのニック・ローズに飲み物を出した。気がつくと、僕は彼に自分たちのバンドについて熱心に語っていた。すると彼は、カセットを送るための住所を教えてくれ、1週間後には“君たちをプロデュースしたいとレコード会社に言ってみるよ”と電話をくれた。僕は床から立ち上がると、すぐにバンドに電話をかけた。

ニック・ローズがデュラン・デュランのプロデューサー、コリン・サーストンと一緒に“Too Shy”をプロデュースした。イントロで僕が一音だけ歌っているのは、実際には声を慣らすためのものだったんだけど、コリンは“とりあえずそのままにして、どう感じるか見てみよう”と言っていた。

レコーディングが終わった後、ヘブンのナイトクラブで(DJの)ポール・ガンバッチーニに会ってテープを渡した。彼は僕たちを気に入ってくれて、チャンネル4の番組『The Other Side of the Tracks』で、当時おそらく世界最大のアーティストだったフィル・コリンズと一緒に僕たちを紹介してくれた。すべてがうまくいき、いつの間にか1位になっていたんだ」