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イアン・ハンター、フレディ・マーキュリー/ミック・ロンソン/キース・ムーンとフランク・ザッパ/ジョー・エリオット/ボブ・ディランらとの逸話語る

2024/08/06 14:39掲載
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Ian Hunter Band Feat. Mick Ronson / Live At Rockpalast
Ian Hunter Band Feat. Mick Ronson / Live At Rockpalast
モット・ザ・フープル(Mott The Hoople)イアン・ハンター(Ian Hunter)は英Classic Rockのインタビューの中で、フレディ・マーキュリー/ミック・ロンソン/キース・ムーンとフランク・ザッパ/ジャコ・パストリアス/ミック・ジョーンズ(ザ・クラッシュ)/ジョー・エリオット/ボブ・ディランとの逸話を語っています。

■フレディ・マーキュリー

「モットのサポート・バンドの中では、クイーンとは一番仲良くなれた。彼らは俺たちの一部になり、俺たちは彼らの一部になった。まるで9人編成のバンドにいるようだった。フレディは最初から個性的だった。彼は陽気だった。すごく面白いことを言うんだけど、それが面白いことだとは気づいていなかった。彼はいらいらしていた。すべてが即時でなければならなかった。彼は今すぐにでも大スターにならなければならなかった。

ラスベガスの俺の部屋で、彼は行ったり来たりしながら“こいつらはいつになったらわかってくれるんだ?”と言っていた。俺は彼に“アメリカは広いから何度か回らなければならないだろう”と言った。それが彼らのしたことであり、そしてもちろん、彼は大スターになった」

■ミック・ロンソン

「ミックと出会ったのは、俺が俺の仲間ミラー・アンダーソンという偉大なギタリストの代わりに『The Voice』という宗教的なものに出演した時だった。アルバム『All The Young Dudes』で再会した。彼は最後の曲“Sea Diver”でランディ・ニューマン風のアレンジをしてくれた。それをタバコの箱に書いていたのが印象的だった。

彼は優しくて、とても謙虚な人だった。彼をアレンジに参加させたければ、彼に直接頼むしかなかった。でも、彼には別の一面もあった。彼は自分の実力を知っていた。“僕は何でもできる”とね。

俺たちは、何度ツアーに参加したかわからないほど、部屋をシェアしていた。彼は朝起きると昨夜のワインを飲み、テレビに映し出されたものと口論を始めた。どうやら俺はバスルームの床に水を残していたようで、彼はそれが嫌で、俺に文句を言っていた。

俺たちは17年間、断続的に仕事をしていた。みんな言うんだ。“ミックとはどうだった?”とね。複雑だったよ。彼は自分のやりたいことを何でもやって、それに飽きたら俺に電話をしてきた。“何かやりたいんだ”。それが俺たちだった」

■キース・ムーンとフランク・ザッパ

「キースはハリウッドのパラディアムでモットを観たことがあって、彼は翌朝、俺に電話をかけてきて“今夜一緒に出かけないか?”と言った。彼は小さなフォルクスワーゲンで俺を出迎えた。キースと女性が前に乗り、俺となぜかウサギ小屋が後ろにあった。俺たちは違う人の家に行くつもりだったんだけど、その人が家にいなかったから、彼は“フランク・ザッパの家に行こう”と言った。

それで俺たちはザッパの家にたどり着いた。ザッパは本当に紳士だった。彼は言った。“下に2インチのテープがあるんだけど、聴いてみるかい?”。どうやらフランクのトラップに捕まってしまうと、ヴォーカルもメロディもないものを何時間も聴くことになるらしい。俺はそれを知らなかった。

俺はそこでみんながジャムっているのを聴いていた。45分後、ザッパは言った。“どう思う?”。俺は(丁寧に)“いいね”と言うと、彼は別の曲をかけた。キースは何が起こっているのか分かっていた、キースは、この家の別の場所へと姿を消した。キースもザッパも二人とも頭がおかしいと評判だったけど、二人とも紳士だった」

■ジャコ・パストリアス

「彼は素晴らしかった。『All-American Alien Boy』に参加した。彼とはブラッド、スウェット&ティアーズのボビー・コロンビーを通じて知り合った。ボビーがフロリダから彼を連れてきて、ジャズの連中を招待して彼の演奏を聴かせていた。ジャコは“こんなの嫌だ、猿芝居をしている気分だ”と言っていたので、俺は“アルバム作ってるんだけど、一緒やらないか?”と言ったんだよ。

彼は巨大なエゴを持っていたが、それはポジティブなものだった。彼は世界最高のベーシストになりたくて、俺の家で毎日8時間も練習していた。すごいことだけど迷惑だった。彼はよく近くの丘の上に行って、たくさん考えていた。その後、彼はその代わりに、やってはいけないことをたくさんやっていたと思う。(メタリカのベーシストである)ロバート・トゥルージロはアルバム『Defiance Part 1』に参加した時、こう言っていた。“そうそう、ジャコのベースを使ったんだよ”。いい話だった」

■ミック・ジョーンズ(ザ・クラッシュ)

「彼は子供の頃、モットをよく追いかけていた。彼はいつも着飾っていて目立っていた。70年代半ばに、(ハンターのレーベル)CBSの誰かが、このバンドを聴かせたいと言ってスタジオに俺を連れて行ったことがある。それは、みんなが彼らを知る前のザ・クラッシュだった。俺がスタジオに入ると、彼らはそこにいた。

それで彼らの曲を聴いた。感想を聞かれたので“最高だよ”と言うと、彼らの一人がこう言ったんだ。“天の恵み”と。その時、それがモットの後を追っていたのと同じ男だと気づいた。なぜかパンクスたちはモットが大好きだった。ロンドンのクラブにミック(ロンソン)と一緒に行ったら、彼らは彼をそこから追い出したけど、俺は大丈夫だった。その場を切り抜けられたんだ」

■ジョー・エリオット

「ジョーは生まれながらの才能だ。モットでは、お金がない人は会場の後ろに入れていた。ジョーもそうだった。(イングランド中北部)ドンカスターでのことだと言っていた。彼がお金を払ったかどうかはわからないけど、楽屋に押しかけてきたんだ。

数年後、俺のマネージャーは、彼らのレーベルから俺に会いたいと連絡を受けた。以前、誰だったか忘れたが、そういう人に会ったことがあったが、好きになれなかったので、やりたくなかった。でも最終的にジョーに会ったとき、彼は素晴らしかった。彼は俺よりもモットのことを知っている。ただ座って彼の話に耳を傾けるだけでいいんだ」

■ボブ・ディラン

「ボウイと(ボウイのマネージャーである)トニー・デフリーズがニューヨークのダウンタウンにあるクラブでやっていたイベントに、俺とミック・ロンソンが行ったことがあった。レストランがあって、奥にクラブに通じるトンネルがあった。俺は“あそこを通りたくない。レストランにいよう”と言った。

そこに座っていると、ボブ・ディランと(フォーク・シンガーの)ボビー・ニューワースが入ってきた。彼らは俺たちから2つほど離れたテーブルに座り、ボブはギターを取り出し、(1976年のアルバム)『Desire』の全曲を演奏し、彼は面白がって演じていた。人々は何が起こっているのか見ようと飛び込んできて、俺たちはただそこに座っていた。結局、クラブへに行くことになり、みんな立ち上がってジャムを始めた。それがローリング・サンダー・レヴューが誕生した夜だった。

ディランには他にも何度か会った。ある時、俺たちは通りを歩いていて、彼は片足を舗道に、片足を路上に置いていてこう言った。“モット・ザ・フープル!モット・ザ・フープル!”。ローリング・ストーン誌の批評で、俺たちの方が彼より優れていると書かれていた。俺は彼が俺たちを嫌っていると思ったけど、彼は俺たちを気に入っていたことがわかったんだ。

1975年にマディソン・スクエア・ガーデンで行われたストーンズのライヴの後にも彼に会った。その夜、彼らは絶好調ではなかった。彼は俺に彼らのことをどう思うかと尋ねた。“彼らの最高の夜ではなかった”と言うと、彼はこう言った、“"いや、とんでもなく無感動だ(Apathy For The Devil) ”。俺は“これをタイトルにしよう”と思った。それで“Apathy For The Devil”という曲を書いたんだ(曲名は“Apathy 83”。“Apathy For The Devil”は歌詞にあり。1976年の『All American Alien Boy』に収録)」