「ジミはヴィレッジにあるザ・ジェネレーションというナイトクラブでジャムるのが大好きだった。そこが倒産したとき、彼と(マネージャーの)マイク・ジェフェリーは、彼と彼の友人たちがリラックスできる場所にし、できれば隅にある8トラックのテープマシンで自分たちのジャムを録音したいと考えて、そこを購入した。その後すぐに、僕はそのスペースの評価するよう依頼された。彼らが建物をどれだけ広くできるかを確かめるために改装を始めたので、僕は階段を下りてその現場まで歩いたのを覚えている。クラブは悲惨なことになるとすぐにわかった。“正気かい? ジミが1年間にスタジオに費やす時間を知っているかい?彼のために世界最高のスタジオを作って、彼がスタジオに入ったら、いつでもリラックスしてレコーディングできるようにしよう”みたいなことを言ったのを覚えている。クラブの構想は頓挫し、エレクトリック・レディ・スタジオが誕生した。翌年(1970年)の6月までにスタジオAは完成し、いくつかのテスト・セッションの後、ジミは彼のスタジオでレコーディングするためにやってきた。彼はこのスタジオを誇りに思っていた。彼はこのスタジオのサウンドと雰囲気を気に入っていた。それから4ヵ月間、新しいアルバムのために多くの曲をレコーディングし、それが『Cry Of Love』となった。ジミが望んでいたもの、つまり誰にも邪魔されずに創作できる場所のレガシーは今日まで受け継がれている。エレクトリック・レディ・スタジオに来るアーティストは皆、ジミ・ヘンドリックスの魂を感じ、そのスピリットが彼らの音楽創作を助けているんだ!」
「ジミの創造力は常に次のレベルへのアイデアで満ち溢れていました。彼は平凡なことに満足することはなく、前例のない素晴らしいものを作りたいという強い情熱に突き動かされていました。それがエレクトリック・レディ・スタジオ設立の原動力となったのです。映画『Electric Lady Studios: A Jimi Hendrix Vision』は、制作やレコーディングを含む音楽のあらゆる面で、ジミがどれだけ先見的で独創的であったかが明らかになります。エレクトリック・レディ・スタジオでは、既知の音楽の限界を超えて、他のミュージシャンにも扉を開き、彼らが自分の芸術的な希望や夢を実現するための空間を提供しました。私の兄が思いついた素晴らしいものは、設立以来何十年も生き続け、何百人ものアーティストが自分の創造性を発揮し、待ち望む世界中のオーディエンスに届けるための通路として機能しています。