作曲家・ミュージシャン・プロデューサーの
アル・クーパー(Al Kooper)。夜中に突然訪ねてきた
ジョージ・ハリスン(George Harrison)、自宅に招かれたのに突然いなくなってしまった
キース・ムーン(Keith Moon)、郵便物の誤配送を無くすために一緒にシャツを作った
アリス・クーパー(Alice Cooper)など、さまざまなエピソードを英Classic Rockの企画で回想。ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、ローリング・ストーンズ、レーナード・スキナードとのエピソードも回想しています。
■ジョージ・ハリスン
「1981年にジョージのアルバム『Somewhere In England』に参加した。ユーモアのセンスという点で、僕たちは本当に意気投合していた。僕がハリウッドに住んでいた時、夜の11時に玄関のベルが鳴った。ビートルズのジョージが、一度も訪れたことのない家に、まったくアポなしで突然訪ねてきたんだ。彼はそういうことをしていた」
■ジョン・レノン
「ジョンを知ったのは、彼がLAに亡命していた頃、ハリー・ニルソンと過ごした時期(70年代半ば)だった。彼はウィットに富んでいて、特に昼間に会うと素敵だった。夜はほろ酔いがちだった。僕は両方の状態の彼を知っている。僕がレーナード・スキナードのセカンド・アルバムを制作していた頃、レコード・プラント・スタジオは僕たちのクラブハウスになっていた。ある日、ジョンがコントロール・ルームに入ってきた。彼が去った後、スキナードが尋ねてきた。“今のジョン・レノンだったの?”。僕がそう答えると、彼らは深いため息をついて言った。“あー、ちょっと休憩しよう”。そして彼らはそうした」
■ポール・マッカートニー
「フェイセズのドラマー、ケニー・ジョーンズのセッションで、マッカートニーがベースを弾いているのを見て驚いた。彼は後に妻となるリンダと一緒だった。僕の仕事の一部は、リンダが参加できるように、キーボードで弾くことを教えることだった。本当に奇妙なことだったけど、とにかく僕はそれをやった。休憩時間にマッカートニーはピアノの前に座り、“Georgia On My Mind”を弾いた。素晴らしかったよ」
■リンゴ・スター
「リンゴのドラムが大好きだった。ジョージ・ハリスンがプロデュースした彼の曲で演奏したこともある。リンゴは僕と一緒に撮った素晴らしいポラロイド写真を今でも持っているよ。この写真は、僕の著書『Backstage Passes&Backstabbing Bastards:Memoirs Of A Rock‘N’Roll Survivor』に掲載されているよ。この本はもうすぐ再版される予定だ」
■ザ・フー
「僕は『The Who Sell Out』の“Mary Ann With The Shaky Hand”と“Rael”に参加した。(キース)ムーンは伝説にもあるように変わった人だった。彼は映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を観るために、作家のテリー・サザンと僕をLAの自宅に招いたことがあった。ビデオ以前の時代で、プロジェクターとスクリーンが用意されていた。映画の途中で、キースはタバコとビールを買いに行くと言い出した。結局、彼は戻ってこず、テリーと僕は彼のガールフレンドと一緒にそこに座っていた」
■アリス・クーパー
「彼の1977年のアルバム『Lace And Whiskey』に参加した。アリスと僕はLAのコールドウォーター・キャニオンに住んでいた。名前が似ているから、お互いの郵便物を受け取ることもあった。僕たちはシャツを作ったんだけど、僕のには“アリスではなくアル”、彼のには“アルではなくアリス”って書いてあった。僕たちはふたりともダンサーと付き合っていたけど、アリスはそのダンサーと結婚したんだ」。
■ローリング・ストーンズ
「何枚かのアルバムを立て続けに制作した後、僕は秘密裏に休暇でイギリスを訪れた。ストーンズは僕をブッキングしようとしたが、僕はレコードと洋服の買い物に行きたかっただけだから、やらないと彼らに言った。そしたらブライアン・ジョーンズにばったり会って、“アル、君とのセッションを楽しみにしているよ”って言われたんだ。
だから行くと自分に言い聞かせて、面白くなかったら気分が悪くなったとして帰ろうと思っていた。“You Can't Always Get What YouWant”は初日の夜に完成した。凄まじかった。しかし、ジミー・ミラーはジョイントを回すのに忙しく、プロデュースという点ではあまり仕事をしていないようだった。あの曲の本当のプロデューサーはミック・ジャガーだった」
■レーナード・スキナード
「僕はジョージア州アトランタでアルバムを制作していた。夜になると、僕はクラブに通っていた。発音しにくい名前のバンドがそこで6晩、一晩に2セットか3セット演奏していた。3日目の夜、僕はギターを弾いた。5日目の夜には、彼らの何人かとパーティーをすることになり、彼らとプロダクション契約を結ぶことについて話し合った。
彼らはとても良かったので、僕は自分のレーベルSounds Of The Southを立ち上げ、2週間でデビュー・アルバムを制作した。確かにロニー・ヴァン・ザントは気性が荒かったが、今まで会った中で最高のバンドリーダーの一人だった。彼はスキナードを鉄拳で支配していた。誰かが彼に逆らうと、殴り飛ばされるんだ。今まで見たどのバンドよりもハードなリハーサルをしていた。ギターソロは全て事前に書かれていたよ」