The Stone Roses / The Stone Roses
ザ・ストーン・ローゼズ(The Stone Roses)のデビュー・アルバム『The Stone Roses』をプロデュースした
ジョン・レッキー(John Leckie)。英MOJO誌の新しいインタビューの中で、デビュー・アルバム制作秘話を語る。2ndアルバム『Second Coming』の制作から離れた理由についても話しています。
「(ラフ・トレードのボスである)ジェフ・トラヴィスが彼らのオリジナル・デモを送ってくれたんだけど、僕が返事をした時には彼らはZombaと契約していた。イアン・ブラウンがデュークス(オブ・ストラトスフィア/XTCのサイドプロジェクト/レッキーがプロデュース)のアルバムについて話したことがあったかい? 何年も気づかなかったんだけど、(ザ・ストーン・ローゼズの)“Made Of Stone”のヴォーカル・メロディがデュークスの“25 O'Clock”と同じだったんだ。イアンはそのメロディーをパクったんだと思う。だから彼らは僕を選んだのかもしれないけど、僕はジェフが僕を推薦したからだと思っている。
デモを聴いた最初の印象は“ああ、またインディーズバンドか”だった。録音はダメで、すべてが速すぎて、ヴォーカルはリバーブがかかりすぎていた。難題だと思った。リハーサルをし、曲をアレンジし直し、イントロとアウトロをつけ、テンポを一定にしなければならなかった。“I Am The Resurrection”では、彼らは後半、ステージでやっていたようなフィードバックとノイズのジャムをやりたがった。僕は“それはレコードでは退屈だ。人々の記憶に残るようなメロディアスなものを”と言ったよ。
ジョン(スクワイア)に対しては批判的になるかもしれない。提案するというより、“どうしてこの部分はあの部分と同じようないい音にならないんだ?”と言っていた。彼はいろいろなアンプやギターを試してみたかったようだが…。彼はスタジオの小さなスペースかロックフィールドの寝室に16トラックのフォステクス・レコーダーを設置し、そこで何日もかけてパートを練り上げていた。
マニはいつも素晴らしかった。イアンのレコーディングで苦労した記憶はない。レニは素晴らしいドラマーで、素晴らしいハーモナイザーだったが、彼は何でも歌いたがっていた! イアンは“レニを断ってくれないか?”と言っていた。イアンはハーモニーが60年代っぽいと思っていたんだ。
僕はレコーディングに夢中になってしまうので、レコードが与える影響という観点から作品を予想することはない。家で聴くようなものを作りたいだけなんだ。“I Wanna Be Adored”で始まり、“I Am The Resurrection”で終わるということはいつもわかっていたが、全体の流れを把握した段階で“ああ、これはすごくいい”と気づいた。ジョンとイアンはこのアルバムを嫌っていたけどね。彼らは、ドラムとベースの音が足りないと言っていたし、ギターももっと破壊的であるべきだと言っていた。彼らはスタジオでずっとパブリック・エナミーを大音量で流していたからね。
アルバムが成功した後、Zombaは“好きなようにやれ”と言った。イアンとジョンは(ジェームス・ブラウンの)“Funky Drummer”のブレイクビーツ・ループを使った“Fools Gold”のデモを持っていて、僕たちはそれと“What The World Is Waiting For”をレコーディングするために、コーンウォールのソーミルズで三週間を過ごした。ワウ・ギターだけで4日間かかった。
あれから35年、孫たちはストーン・ローゼズを聴いている。僕のせいではなく、彼らの学校の友達のせいだよ。“あのおかしな色でペンキが飛び散ったレコード、おじいちゃんがやったんでしょ? レコードやTシャツはある?”。
セカンド・アルバムは、彼らが来なかった時点で問題だとわかっていた。レニは何日も家に帰っていないし、ジョンは部屋から出てこない。その頃はA&Rもマネージャーもいなくて、僕と彼らだけだった。(A&Rの)ゲーリー・ガーシュに“3週間もここにいるのに、彼らは何もしてくれないんだ”と言ったら、彼は“問題ない、ただ彼らにクリエイティブな仕事をさせればいいんだ、予算は気にするな”と言っていた。スタジオは1日800ポンドで、1日400ポンドでループを作るために雇われたプログラマーはただ座っているだけだった。彼らには世界最高のドラマーがいるのに、ドラムマシンを使いたがった!悪夢だったよ。僕は3ヵ月で辞め、彼らは14ヵ月後に『Second Coming』を完成させた」