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テレンス・トレント・ダービー/サナンダ・マイトレーヤ、名前の変更/1stは『サージェント・ペパーズ』以来最も重要な作品だと発言したこと等を回想

2024/04/09 21:38掲載
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Sananda Maitreya
Sananda Maitreya
テレンス・トレント・ダービー(Terence Trent D'Arby)としての活躍でも知られるサナンダ・マイトレーヤ(Sananda Maitreya/2001年頃に改名)。英ガーディアン紙の企画で、ファンから寄せられた様々な質問に答えています。

Q:かつてのインタビューの中で、自身のデビュー・アルバム『Introducing the Hardline According to Terence Trent D'Arby』は、ビートルズ『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』以来最も重要なアルバムだと主張しました。今それを支持しますか?

「僕はたくさんのたわごとを言ってきた。モハメド・アリは僕のヒーローの1人だったけど、僕も同じように、とんでもないことを言えば注目されると思ったんだ。若いアーティストだから自分の作品を聴いてもらわなければならない。僕は、ある程度は自分が天才だと自分に催眠術をかけていた。それは魔法のように機能したけど、僕はそのために支払わなければならない代償の大きさを理解していなかった。僕はビートルズやストーンズに憧れ、デューク・エリントンやスティーヴィー・ワンダー、ブライアン・ウィルソンの作品を聴くセンスを持っていた。では、なぜ僕が創作活動をしているときに、自身のセンスは見捨てる必要があるのか? 僕はあのアルバムと僕のすべてのアルバムを誇りに思っている。僕たちにはロックスターになる人が必要なんだよ! オアシスが登場し、リアムがあのようなことを言ったとき、彼らは金環を掴んだ。自分も同じようなことをしたと思っていたから、そのことには永遠に敬意を表するよ」

Q:一時期、最大の注目の的(「次のプリンス」だったように記憶している)でしたね。どんな気分でしたか?

「何度か夢で見たことがあったので、まさに予想通りだった。もちろん、成功は自分の環境を変え、望んでいた場所に自分を置くものだが、より大きな影響を与えるのは周囲の人々。彼らは、自分が成功のために注いだ土台を獲得していないのだから、彼らがぐらつき始めると、自分自身の土台も脅かされることになる。また、システム自体が自分を審査する機会がないので、政治的な配慮も必要だ。消費主義でも愛国心でも何でも、文化は容認できる行動を決める。彼らは反逆者のイメージを支持し、その典型がよく売れるが、実際の反逆は受け入れられないんだ。

マイケル・ジャクソンはビートルズのカタログを手に入れたことで、ソニーでの影響力が大きくなった。僕はマイケルを敬愛していたが、彼は僕の一番のファンではなかったし、彼らがプロモーション活動をマイケルから僕に移すことを彼はあまり快く思っていなかった」

Q:1989年のセカンド・アルバム『Neither Fish nor Flesh』は、そろそろ正当な評価を受けてもいい頃だと思いませんか? 私はいつも素晴らしいと思っていました。

「セカンド・アルバムの時、CBSはソニーの傘下に入った。突然、僕は新しい人たちと仕事をすることになり、会社の雰囲気はずっと保守的になった。半年後にはそこにいないかもしれない重役たちに、自分のクリエイティブな意志を明け渡すつもりはなかった。論争を起こすとわかっているものを作ったが、最初の作品と同じように人々に受け入れられると思っていた。レコード会社の社長は“これは真の天才か狂人の作品で、どちらかはまだわからない”と言い、伝説のA&Rマン、マフ・ウィンウッドは。"もしジェームス・ブラウンが現代のアーティストだったら、25歳のときに作ったであろうアルバムだ”と言った。

マスコミや世間の反応は最初のものと同じくらい極端だったが、方向性は逆だった。3分の1の人が受け入れ、3分の2が罵った。1年後、僕は傷心を癒していたが、ビバリーヒルズのスーツのセールスマンが、パートナーのお気に入りの曲は『Neither Fish nor Flesh』の“Billy Don't Fall”だったと教えてくれた。彼が病気の間、この曲は“彼らの曲”であり、彼が亡くなるまで一緒に聴いていたという。僕はあまりの衝撃で店を出なければならなかった。アーティストとしての成功について語るとき、そのようなことが真の目的なんだ」

Q:なぜ名前を変えたのですか?

「僕は“栄光からの転落”にトラウマを持たない新しいアイデンティティを作る必要があった。あの男は破滅的だった。また、当時の“会社”は、以前の名前に関連するものはすべて、僕ではなく彼らが所有していることを僕に理解させたようにした。熟考に熟考を重ねた結果、新たなアイデンティティを確立することが唯一可能な道だったんだ」

Q:あなたはアマチュアボクシングで大成功を収めました。プロではどこまで行けたと思いますか? 理想の対戦相手は誰でしたか? また、リング登場曲にはどんな曲を使っていたでしょうか?

「ボクシングの世界に入ったことも、その後軍隊に入ったことも、どちらも僕がアーティストとして恩恵を受けた武者修行の一環だった。それは僕の自信とオーラを変えた。僕は自然の人間だったからこそ、遠くまで行くことができたと思っている。最後の試合のひとつは、ある若者との試合だった。僕が彼を殴れば殴るほど、彼の母親が彼を応援する声が聞こえてきた。僕は感動し、その瞬間にひらめき、他人の息子の顔を殴るためにこの世にいるのではないと悟った。彼女の不幸を終わらせるために、僕はその子をノックアウトしたが、それが気になった。当時は、唾を吐きかけたり怒鳴ったりする男たちが音楽だったが、僕はプロコフィエフの“ロメオとジュリエット~モンタギュー家とキャピュレット家”が好きだった。僕のヒーローはアリで、彼が僕のアルバムを掲げている写真は大切な宝物のひとつだ。僕の理想の対戦相手は、僕が勝てると思った人なら誰でもいいよ!」

Q:マイケル・ハッチェンスの死後、あなたはINXSのフロントに立ち、2000年のシドニー・オリンピックの会場となったスタジアム・オーストラリアのオープニングを祝う1回限りのパフォーマンスを行いました。このコラボレーションにはどんな経緯があるのですか?

「僕がINXSに参加するという噂をずっと聞いていた。そしたらINXSも同じ噂を聞いていて、僕に電話してきたんだ。僕らが操られていたのかはわからない。とにかく、それがきっかけで、この一度きりのコンサートに誘ってくれたんだ。僕は、彼らが最終的に僕をバンドに加えようとしていたかは知らないけど、あの素晴らしい曲を正しく演奏するために1週間かけてリハーサルをし、この日のために白いレザースーツを作ってもらった。僕の知らないところで、200~300人の小学生が全員白い服を着て振り付けをしていたので、僕が外に出るとみんなと同じだった! そのとき、僕は間違いなくスピリチュアルなものが関わっていると思い始めていた。マイケルがOKしてくれていると思っていなかったら、やらなかったと思う。僕は彼のことが大好きだったし、彼の代わりを務めるのは光栄なことだった」