Pink Floyd / The Division Bell
ピンク・フロイド(Pink Floyd)が1994年に発表したスタジオ・アルバム『The Division Bell(邦題:対)』。シングルカットもされた「Take It Back」と「Poles Apart」の2曲には、
ドリーム・アカデミー(The Dream Academy)の
ニック・レアード=クルーズ(Nick Laird-Clowes)が作詞で参加しています。その経緯をニックがQ Magazineのインタビューの中で話しています。
ピンク・フロイドの
デヴィッド・ギルモア(David Gilmour)は、ドリーム・アカデミーの1stアルバム『The Dream Academy』(1985年)と3rdアルバム『A Different Kind of Weather』(1990年)にプロデュース参加しています。
ニックとデヴィッドとのつながりは、ドリーム・アカデミーよりもずっと古く、ニックがドリーム・アカデミー以前に組んでいたザ・アクトというバンドに、デヴィッドの兄弟であるマークが参加していました。そのためニックは、この当時からデヴィッドのことを知っていました。
Q:『The Division Bell』でソングライターとしてデヴィッドとコラボすることになったきっかけは何だったのですか?
「ドリーム・アカデミーが解散したとき、まず僕は旅に出た。トラボラの山々やパキスタン、インド、中国、ロシアとの国境などに行ったけど、それは本当に何もかもから離れるための旅のひとつだった。
帰ってきたら、ワーナーから電話がかかってきて“君はマドンナの共作者であるパット・レナードとは、ドリーム・アカデミーのセカンド・アルバムで仕事をしたよね。彼はMr.ミスターのリチャード・ペイジとバンドを結成しているんだが、彼らは作詞作曲をしてくれる人を探しているんだ。興味ある?”と聞かれた。僕は“もちろん!”と答えたよ。
それで行って、いくつか書いて戻ってきたら、電話がかかってきて“アルバムのためにLAに来ないか?”と言われたんだ。それでパットが楽器を演奏して、リチャードが歌って、僕が鉛筆を持っていた(笑)。僕はそこに座って、聴いて、書いて、次の日にまた戻ってくる。とても大きな仕事で、それを3ヶ月ほど取り組んだんだけど......僕にとっては、かなりトラウマ的な時期だったんだ。バンドは解散し、恋人とも別れ、本当に辛い時期だった。幸いなことに、リチャード・ペイジを通してチベット仏教と瞑想に出会った。本当に嫌な時間を過ごしているときは、そんな嫌な時間や嫌な場所から抜け出すための新しいアイデアや方法を受け入れるようになるんだよ。
その後、ロンドンに戻ったら、デヴィッド・ギルモアが“ロジャー(ウォーターズ)抜きのピンク・フロイドのセカンド・アルバムに取り組んでいる”と言った。そして、いつもと同じように、彼は“今やっていることを聴いてくれないか?”と言ったので、僕は“いいよ!”と言ったんだ。
デヴィッドがいろいろ聴かせてくれて、僕は“これは最高だ!”と言った。そしたら彼は“スタジオに来て、僕のヴォーカルをプロデュースしてくれないか? みんな、最高だ!って言いたがるんだよ。でもスタジオで実際に聴いてみたら、チューニングが合ってなかったり、何か他の問題があったりするんだ。君は何年も僕と一緒に過ごしてきた。君なら本当のことを言っていることが分かるんだ”と言われた。
続けて“曲を作ろうとするなよ、僕たちが曲を書いているんだから”とも言われた。彼はポリー(サムソン、デヴィッドの妻)と一緒に曲を書いていて、“みんな僕らと一緒に曲を書きたがるけど......ソングライティングじゃないんだ”と言っていた。僕は“それは素晴らしい、問題ないよ”と言った。彼は僕にプロダクション・クレジットを与えようとしていたんだけど、(ボブ)エズリンがすでに契約を結んでいたから、プロダクション・クレジットは与えられないということになったんだ。
そして、時間が経つにつれて、僕は毎週彼の家に行って新しい曲を聴くようになり、僕はただアドバイスをしていた。“これはいい曲だ。これはいらない、カットしていいよ”と、彼とポリーと僕はそこに座って、素晴らしい赤ワインを飲みながら、そういうことをしていた。
その後、彼は、歌詞のない素晴らしい曲がまだ2曲あるというところまで来た。そこで彼は“なあ、何かアイデアはないか?”と言った。僕は“シド・バレットについての君のエピソードは?ロジャーのことは知っているけど、君とシドは16歳の時に一緒に南フランスに行ったんだよね。最初から友達だったんだね。それで、君の話は?”と言ったのを覚えているよ。彼はとても物静かで控えめなんだけど、“彼の目の光が失われるなんて思ってもみなかった”と言った。そして突然、“ちょっと待て、他に何かあるのか?”という話になったんだ(笑)。そして始まった... “雨が降っていた、暗くゆっくりと...”。僕はそれに熱中になり始めた。彼が“ああ、わかったよ”と言って、それから僕たちは皆で協力し始めた。それが“Poles Apart”になった。彼は最後に“おめでとう、君はピンク・フロイドの曲の一部だ”と言った。そして彼は“君は何年生まれ?”と言ったので“1957年”と答えると彼は“ちょっと待て”と言って、彼はワインセラーに行った。戻ってきて“これは63年ものだけど、とてもいいよ”と言った(笑)。そして僕たちはそれを開けて“ワオ... ”という感じだった。
僕たちは長い付き合いだった。僕は彼のソロ・アルバムに参加して歌詞を書いた(クレジットはない。僕は彼にあるものを渡しただけ)。僕らは“Christmas on 45”というクリスマスの曲を作ったこともあったし、ドリーム・アカデミーのアルバムのためにスタジオで働いたこともある。良い友達だった。
(“Poles Apart”の出来事の)数週間後、僕のお気に入りの曲ができた。当時は“She Will Take It Back”という曲で、ガイアのことを歌っていて、ガイアと僕たちが行動しなければ地球が僕たちからそれを取り戻すという内容だった。
僕たちはカットアップしたり、いろいろなことをした後、僕は車に乗って家に帰ろうとした。朝の4時頃、ポートベロー・ロードで車を停めて、曲の最後の4行を書いた。僕は正直“神様、彼らは絶対にこの曲には賛成しないだろう”と思った。次に会った時、“こういう歌詞があるんだけど...”と言った。するとデヴィッドは“じゃあ、聴いてみよう ”と言った。それで僕はそれを読んだ。すると、彼らは“素晴らしい!”と言ってくれたので、僕は“うれしい!”という感じだった。この曲は本当に大好きだったし、ラジオのような雰囲気があったから、メインの曲になると思っていたんだ。
そのあと、とても豊かな経験だったので、チベットの仏教徒のところにも行った。ネパールに行き、一種のリトリート(※日常から離れた環境に身を置き、いつもと違った体験を楽しむこと)に入ったんだ。戻ってきたときには、アルバムはすでに発売されていて、父が“このピンク・フロイドのアルバムは大ヒットだ!1位だ!”と言っていた。彼らはツアーに出ていて“一緒にツアーに出ないか?”と言われた。そうしたら、すごくよかったけど、彼らは“ねえ、2曲目以降はどうしたんだ?君は消えてしまったようだった”“ああ、そうだよ。完全に姿を消したんだ(笑)”」