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デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ「カモン・アイリーン」誕生の舞台裏 崖っぷちの制作を中心人物語る

2023/11/14 19:11掲載
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Dexys Midnight Runners / Too-Rye-Ay
Dexys Midnight Runners / Too-Rye-Ay
デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ(Dexys Midnight Runners)の代表曲「Come On Eileen(カモン・アイリーン)」。中心人物のケヴィン・ローランド(Kevin Rowland)がSpinのインタビューの中で、この曲の誕生について語る。ヒットを出さなければならない極度のプレッシャーにさらされていたという崖っぷちでの制作でした。

「僕のソングライティング・パートナーはビッグ・ジミー・パターソンだった。あのアルバム(『Too-Rye-Ay』)のほとんどを一緒に書いた。1981年の終わりから82年の初めにかけてのことだった。僕たちは大きなプレッシャーを感じていた。最初のバンド(デキシーズ第1期)は1980年に終わった。バンドの半分くらいが去った。その後、新しいメンバーが入ってきた。どういうわけか8人編成になり、もちろんギャラも支払わなければならなかった。全員に支払うのは簡単じゃなかった。

あのアルバムがうまくいかなかったら、きっとバイバイしていただろうという印象は確かにあった。バンドの内外には大きなプレッシャーがあった。マネージャーは(僕たちに)興味を失いつつあった。彼はギャラを払うために自分の金を入れなければならず、うんざりしていた。彼はそのことをはっきり言っていた。

ジムと僕で“Yes Let's”という曲を書いた。その曲には後に“Eileen”に結実する歌詞の一部が含まれていた。メロディやリズムは違っていた。ジムと僕はこの曲を書き始めた。コーラスは良いと思っていた。多様なメロディがあったが、その下に違うコードがあった。

曲の下書きができて、“Eileen”の草稿もできた。リハーサルに曲を持って行ってバンドに見せるのは、いつも緊張する。自分では良い曲だと感じても、それがゴミのような曲だったら笑われるかもしれないし、“くだらない。そんなのプレーしない”とか言われるかもしれない。持ち込んだこの日は、特に緊張した日だった。僕はバンドにコードを教えて、ジムはブラスの人たちに何を演奏するかを教えたりしていた。バッキング・ヴォーカルはみんなにやってもらった。でも♪Come on Eileen、ta-loo-rye-a......という部分の歌詞は、まだなかった。アイデアを出すために、みんなにはbap bap bap bap ba ra ra ra, bap bapと歌ってもらった。

部屋の緊張感が伝わってきた。1年か1年半前に加入したときは“ケヴィン、どうする?”とみんな僕の話を聞いていたのに、今は僕の話を聞いていない。彼らはただ腹を立てていた。お金もなく、懸命に働いていた。

僕はアルトサックス奏者のブライアンに、歌い方を教えていた。他の6人はそれを見ていた。僕は彼に“そんなにソフトじゃなくて、もっと聖歌のような感じなんだ。聖歌みたいにできる?”と言うと、彼は“わかっているけど、好きじゃないんだ”と言った。バンド全員が見ている前で、僕はかなり落胆していたと思う。僕はキレてしまった。プレッシャーに負けてブチ切れてしまった。“気に入らないなら、消えろ”と言った。もちろん筋違いなんだけど、そう言った。

ジムは僕に“そんな風に彼に話してはいけない。彼が行くなら、僕も出て行く”と言った。ジムは出て行った。彼は戻ってこなかったし、ブライアンも戻ってこなかった。彼らは戻ったとき、セッション・プレイヤーとしてアルバムに参加した。彼らにはセッションプレーヤーとして報酬を支払った、それが起こったことだ。

バンドのギタリストだったビリー・アダムスは、アルバムの仕上げを手伝ってくれた。僕たちはそれを完成させ、書いているうちに、これは本当にいいものになると感じていた。

ヒットを狙って書いたわけではないけど、可能な限り良いものを書こうと常に心がけていた。僕にとっては商業的なものというのは、人々がそれを好むということを意味するだけなので、選択する必要はなかった。

フィドル奏者のヘレン・オハラは、最初のデキシーズにいたケヴィン・アーチャー(アル・アーチャー)から紹介された。彼は81年の初めにデキシーズを脱退して、自分のバンド、ブルー・オックス・ベイブスを結成していた。僕は彼のバンドのストリングスが気に入っていた。

“ヴァイオリン奏者は誰?”と言うと、彼は“ヘレン・ベヴィントン”と言った。彼は“彼女は君の助けになるよ”と言っていたので、彼女を誘いに音楽大学に行き、ヘレンを迎えた。

ケヴィン・アーチャーのサウンドに影響を受けたのは確かだ。音楽ではなく、音符でもコード・シーケンスでもリズムでも歌詞でもなく、音楽のスタイルをね。

彼のバンド、ブルー・オックス・ベイブスには“What Does Anybody Ever Think About”という曲があった。その曲にもヴァイオリンによるブレイクダウンとスピードアップがあった。つまり、僕の独自なアイデアではなかったんだけど、珍しいアイデアだったんだ。だから、基本的にそれを真似たんだよ。ケヴィンは今日に至るまで印税のかなりの割合を受け取っているし、今後もそうするだろうね。

(ミュージックビデオの)監督はジュリアン・テンプルが務めることになった。ジュリアン・テンプルのことは知っていた。彼はセックス・ピストルズの初期の作品を撮影し、『The Great Rock 'n' Roll Swindle』も手がけたけど、(僕らに提案した最初のアイデアは)正直言ってかなりひどかった。僕たちはイギリスのビッグ・ポップ・ショー『Top of the Pops』に出演した。彼は昼休みにやってきて“こんなアイデアがあるんだ。君たちは全員クラブにいる。みんなスーツを着ている。ウェイトレスの名前はアイリーンだ”と言った。僕は“それはちょっと......”と言い、こういう風にした方がいいと思うんだと言って、僕たちが考えていたストーリーを説明した。どこから思いついたのかわからないけど、そのアイデアが浮かんだんだ。

彼は“分かった。文字通りというか何というか…でもその方がいいと思うよ”と言った。僕は11歳くらいまでに自分が育った家のような家をたくさん並べたいんだと言うと、彼は“分かった”と言って、ロケ地を見つけてくれて、撮影した。長い一日だった。僕たちの服装は、僕たちがどう見えるか、とても気を使った。そして、(この曲は僕たちの)悪い事態を吹き倒してくれたんだ」

ローランドは「Come on Eileen」について、今ではこの曲が自分のものというより、みんなのものだと感じているとも話しています。

「この曲から与えられたものには感謝しているよ。でも、もう僕のものではない。それは君のものであり、誰のものであれ、いい気分にさせてくれる。世に出れば、それはそこにあり、それ自身の人生を持っている。アーティストとしての僕の仕事は、ただ前進し続けること。今やっていることにすっかり夢中だけど、それでもまだ感謝しているよ」