ピーター・バラカン - ジョージ・ハリスン生誕80周年『コンサート・フォー・ジョージ』劇場初上映記念トーク・イベント © 2018 Oops Publishing, Limited Under exclusive license to Craft Recordings
ジョージ・ハリスン生誕80周年『コンサート・フォー・ジョージ』劇場初上映記念トーク・イベントが先日、ゲストにピーター・バラカンを迎えて開催されました。レポートが到着しています。
以下シンコーミュージックより
ジョージ・ハリスン生誕80周年「コンサート・フォー・ジョージ」劇場初上映記念トーク・イベントが、公開翌日の7月29日TOHOシネマズ シャンテにてゲストにピーター・バラカンさんを迎えて開催された。司会は本作宣伝担当の中村まきさん。
ピーター・バラカン(以下バラカン):僕はDVDでコンプリート版は観ていたけれど劇場版を、しかも大きな画面で観るのは初めて。ステージにあれだけたくさんのミュージシャンが出ているから小さい画面では捉えきれないんですよ(笑)。今回ギャリー・ブルッカー(プロコル・ハルム)がずっと出っ放しなのが分かって嬉しかった。
中村まき(以下 中村):ラヴィ・シャンカールも言っていましたけれど、ここにジョージが居るみたいで──。
バラカン:そんな気がしてきましたね。出ている中には日本ではあまり馴染みのない人もいて、その最たるものがおそらくジョー・ブラウン。ビートルズがデビューする直前、イギリスで「ア・ピクチャー・オヴ・ユー」という曲が大ヒットして、当時子供だった僕もシングル盤で持っていました。
彼がインタビューで“ビートルズが自分のバンドの前座を務めていた”と言っていましたけれど、確かに、ビートルズはデビュー・シングルが出る前はイギリスでリヴァプールのキャバン・クラブに通っているファン以外は誰も知らなかったんですよね。マネジャーのブライアン・エプスタインが全く無名の新人バンドを少しでも知ってもらうライヴの機会を──と、当時旬だったジョン・ブラウンをメインにしたツアーを組んで、そこの前座にビートルズを入れたようですね。
中村:映画に当時のポスターが映っていましたね。
バラカン:ジョン・ブラウン自身もビートルズ同様労働者階級出身だったからウマが合ったと思います。これは藤本国彦さんから教えてもらったんですけれど、<<ビートルズはデビューする前にBBCのラジオに出演して、ジョン・ブラウンの「ア・ピクチャー・オヴ・ユー」を歌い、しかもジョージがヴォーカルをとっている>>──そうなんです。かなり意外な感じがするし、よりによってジョージがこの曲を歌ったとは…。ジョー・ブラウンはウクレレが大好きで、ジョージの『ゴーン・トロッポ(Gone Troppo)』(82年)にも参加していました。ジョージも大のウクレレ好きだったから、この映画の最後をジョーのウクレレ弾き語りの「夢で逢いましょう」で締めるのはとてもいいシーンでした。
中村:ウクレレ一本の優しい歌が感動的です。
バラカン:ちなみに「ホース・トゥ・ザ・ウォーター」というジョージが亡くなる少し前にレコーディングした曲を、ジュールズ・ホランドをバックに歌っていた女性サム・ブラウンはジョー・ブラウンの娘です。ジュールズ・ホランドは元スクイーズのメンバーで、その後ソロの活動の他、テレビで司会者として有名になった人。色々なジャンルのミュージシャンを次々と紹介する他にないタイプの番組をやっていて。
中村:日本でもCS放送のMUSIC AIRで「ジュールズ倶楽部」としてオンエアされています。
バラカン:「ホース・トゥ・ザ・ウォーター」はジョージのアルバムには未収録でジュールズ・ホランドのR&Bオーケストラのアルバムに入っています。イギリスの格言に<馬を水際まで引き連れて行くことはできるけれど、無理やり水を飲ませることはできない>というものがあって、歌詞にも<メディアはいつもネガティヴな話ばかりをする、もっとポジティヴな話をしようよ>というジョージのメッセージが込められているとてもいい歌。最後になって本気で思っていることをぶつけてきた…そんな感じの曲です。
中村:そういう曲もちゃんと入っているのがいいですね。
バラカン:この曲を取り上げることは、あまり普通は思わない──。で、このコンサートを中村さんは実際に観ていると聞いてびっくりしました。
中村:2002年12月29日ロイヤル・アルバート・ホールに初めて行きました。映画の冒頭にもオリヴィア・ハリスンさんがお香を焚くシーンがありますが、荘厳な場内にお香の香りが満ちて厳かな感じでした。
バラカン:この劇場版は編集されているので実際の順番とは違うということで、最初はラビ・シャンカールのインド音楽のパートが40分くらいあって。
中村:飾ってあるジョージのポートレイトも最初はインド風のもので、コンサートの途中からは若い頃のポートレイトに変わりました。
ジョージとモンティ・パイソンの関係
バラカン:そうだ、モンティ・パイソンの話もしないと。<ビートルズの精神がモンディ・パイソンに移り変わった──とジョージが言っていた>と映画の中に出てきますが、彼らの番組『空飛ぶモンティ・パイソン』が始まったのが1969年。それはあまりにもイギリスならではのものだから、アメリカでよくウケたな…と思いました、多分伝わらないギャグもあったんじゃないかというくらい独特な味わいで、それまでの笑いのタブーを全部取っ払った番組だったんです。コンサートで演じられたのが彼らの有名な「木こりの歌」。木こりは最もマッチョな職業なのに、彼はトランスジェンダーの男だ──という内容は60年代末期〜70年頃はテレビでは特にタブーの話だった。モンティ・パイソンは笑わせながら社会的にも意義のあることをやっていた集団で、彼らが居たことによってイギリスの「笑い」も変わりました。当時保守的だったBBCは型破りなことはやらなかったけど、モンティ・パイソンはやっちゃったからね。BBCも変わったんですよ。その後の番組も「笑い」に対するタブーがなくなるようなものがずいぶん出てきて、イギリスという国がどんどん変わっていった。ビートルズが音楽の世界で何もかも変えていったのと、モンティ・パイソンはある意味同じような存在かもしれない。
中村:<お笑い界のビートルズ>として書いてあるところもあります。
バラカン:ただ、「笑い」が国境を越えるのはすごく大変なことだから、おそらく日本の人がモンティ・パイソンを観たら……。今回も演じられたウエイターの格好で「シット・オン・マイ・フェイス(僕の顔の上に座ってちょうだい)」と歌うちょっとエゲツないイギリス人好みのギャグ、最後に振り向くとウエイター全員がお尻丸出しだったというのは、追悼コンサートでは彼らじゃなければ多分誰もやらないだろう──というものでした。
中村:ジョージはモンティ・パイソンのメンバーの窮地を救ったんですよね。
バラカン:ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんけど、モンティ・パイソンの劇映画が全部で3本(「ライフ・オブ・ブライアン」「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」「人生狂騒曲」)あって、「ライフ・オブ・ブライアン」はごく普通のブライアンという男がイエス・キリストになる──という話で、本当はEMI フィルムズという大きな会社が制作するはずだったんです。ところが腰が引けたのか直前になって手を引いたのでモンティ・パイソンの連中としては出資者がなくなり困ってしまった。そこにジョージ・ハリスンがハンドメイド・フィルムズという制作会社を作って、自腹を切って「ライフ・オブ・ブライアン」を制作したんです。結果的には大成功になったんですけど、本当に一か八かの冒険だったんですね。今回も出ていたエリック・アイドルはパイソンの中でもジョージと一番仲が良かったと思いますけど、“史上最も高い映画のチケットをジョージが買ってくれた”とコメントしていました。
幅広い出演者たちが集ったコンサート
中村:ジョージの追悼はそんなお尻丸出しのモンティ・パイソンからインド音楽のラヴィ・シャンカール、もちろんエリック、ポール、リンゴという、本当に幅広い人たちが出るコンサートになりました。
バラカン:エリックが「サムシング」を歌うんですよね、この曲はジョージがパティ・ボイドの為に書いた曲だから、この場面を観て僕もフ〜〜ム…と感じました。エリックがあの曲を歌う時はパティのことを思っていたのかどうなのかは想像するしかないけれど(笑)。ついこの間来日して写真展をやったパティの自伝「パティ・ボイド自伝 ワンダフル・トゥデイ」はかなり面白い本で、それぞれの特徴について色々書いています。インドに行ったジョージは哲学的になって私との距離ができた──とか、エリックも一緒になった途端に他の女性に手を出した──とか。
中村:それもあったのかどうか分かりませんが、このコンサートを実現させるためにエリック・クラプトンは頑張っていた。
バラカン:パティのことがあってもエリックとジョージはずっと仲が良くて、二人は兄弟みたいでしたね。で、僕がこのコンサートの映像を最初に観た時に、この人は誰? と思ったのがギターの一番美味しいところを弾いている帽子を被った男。最後のクレジットに知らない名前が一人だけあったので、調べたらマーク・マンという人でした。ジェフ・リンのELOのレコーディングにスタジオ・ミュージシャンとして参加したり、他にもジェフ・リン関係の仕事もあって、その流れでコンサートに呼ばれたんでしょうね、ジョージのスライド・ギターって独特ですけどそれを職人技で完コピして弾いていました。そのジェフ・リンもこのコンサートの音楽プロデューサーとしてクレジットされていますが、一曲歌っただけで他はほとんど目立たずにひたすらバックでギターに徹していました。他にはクラプトン・バンドのセカンド・ギタリストに起用されていたアンディ・フェアウェザー・ロー。最近はほぼスキン・ヘッドにストライプ・スーツ姿でステージに上がるので銀行家みたいだけど、歌もいいしギターもすごく上手いんですよ。あともう一人ボサボサの白髪のアルバート・リー。彼も時々クラプトン・バンドのセカンド・ギターに起用されて、今回は弾いてなかったけどテレキャスターの名手で世界的にも有名。目立つことはしないけど、自分のサウンドを持った職人ギタリストとしてピカイチの人です。今回は本当にいいミュージシャンが集まっていて、後ろの方で派手にパーカッションを叩いていたレイ・クーパーはこの映画のプロデューサーの一人でもあるし、ジョージのハンドメイド・フィルムズのパートナーとしてずっと映画制作をやってきた人。その隣がジム・カパルディで、スティーヴ・ウインウッドがリーダーだったトラフィックのドラマーで、歌も唄うし、ウインウッドと一緒にずいぶん曲も作っていた──彼はコンサートの数年後に亡くなりましたね。さっき出ずっぱりだったのに気がついたギャリー・ブルッカーも今年になって亡くなりましたし、この映画に出ていてもうこの世にいない人は結構いて。
中村:トム・ペティもビリー・プレストンもですね。
バラカン:この映画、トム・ペティとビリー・プレストンの存在は大きいですね。トム・ペティは「タックスマン」を歌って「ハンドル・ウイズ・ケア」もやっています。あと、エリックもジョージの曲の中で一番好きだと言っていた「イズント・イット・ア・ピティ」でのビリー・プレストンの素晴らしいヴォーカルとオルガンは何回聴いてもじんときて、なんか幸せになるんですよ。ジョージともすごく仲が良かったし、71年のアルバム『シンプル・ソング(I Wrote a Simple Song)』には契約の関係上ジョージは本名ではなく変名で参加しています。インストゥルメンタルの「アウタ・スペース」がヒットしましたが、それ以外にも歌入りのいい曲がいっぱい入ったアルバムです。
中村:クラウス・フォアマンも「オール・シングス・マスト・パス」のベースで参加していました。
バラカン:一曲だけでしたけどね。他にベースを弾いていたのはクラプトン・バンドのデイヴ・ブロンズ。ドラマーはたくさんいましたね、ミュージシャンの数が半端じゃなかったです。ジム・ケルトナーに初期のグリース・バンドのメンバーでもあったヘンリー・スピネティ、そしてもちろんリンゴ・スター。
中村:リンゴも見ていて幸せになりますよね。
バラカン:リンゴはどこに出ても「love and peace」の人ですから。
中村:お話は尽きないのですが、ちょうどお時間になってしまいましたのでここでトークを終了させていただきます。ピーター・バラカンさん、ありがとうございました。(場内大拍手)
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