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カルロス・サンタナのロックへの情熱は公園の散歩から始まった 半生を語る

2023/07/06 19:12掲載
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Carlos Santana
Carlos Santana
カルロス・サンタナ(Carlos Santana)のロックへの情熱は公園の散歩から始まった。サンタナは、米ウォール・ストリート・ジャーナル紙に半生を語るコラムを寄稿し、幼いころ1曲50セントでバイオリンを弾いていたこと、ロックへの情熱が始まったときなどを振り返っています。

9歳の時、バイオリンの先生が台所にいる間、リビングルームのソファに座っていたサンタナは、クッションの間から2ドル近い釣り銭を見つけます。レッスンが終わると、彼はそのお金でお菓子屋に行って全額使う。家では母親が洗濯物を干していたので、彼はキャンディを一人で食べ始め、全部食べてしまいます。

「僕がキャンディに2ドル近くも使ったのに、兄弟姉妹たちに分け与えなかったことを知ると、母は僕を叱った。その日以来、共有することは僕にとって当たり前のことになり、やがてそれは音楽やパフォーマンスにも広がっていったんだ」

サンタナの両親はメキシコのシウアトランという町で出会いました。父のホセはプロのバイオリニストで、イベントで演奏するエンターテイナーでした。町にはあまり仕事がなく、付き合っていた女性ジョセフィーナと、より良い生活を求めて駆け落ちします。メキシコ・ハリスコ州アウトラン・デ・ナヴァロで2人は家庭を築き、やがてサンタナが生まれます。父親はお金を稼ぐために何カ月も演奏に出かけていったので、家庭は母親が支えました。

1950年代半ば、パーティーの街となったカリフォルニア州との国境沿いのティフアナにてマリアッチ、ボレロ、ポルカを演奏していた父親は1955年、家族をその地に呼びます。2年の後、家族はより良い地域に引っ越します。

1年後、父親はサンタナがお金を稼ぐ手助けができるようにバイオリンを教え始めます。サンタナはギタリストの兄弟と共に1曲50セントで演奏を始めます。

「僕は音楽を共有し、人々を楽しい気分にさせるのが大好きだった。やがて僕は、父やその友人たちとバイオリンを弾くようになった。より良い給料を求めて、父はバスでサンフランシスコに向かった。父は1年間留守にするつもりだった。父が去った後、僕はバイオリンを弾くのをやめた。母は、僕の音楽への関心が薄れていることに気づいていた。

1961年のある日、母は僕を公園に連れて行き、エレキギターを持ったバンドが初期のロックンロールを演奏するのを聴かせた。ソロを弾いていたのはハビエル・バティスで、彼は僕の頭を回転させた。僕は13歳で彼の後を追い始めた。

母は父にエレキギターを買ってほしいと手紙を書いた。父は友人にギブソンを買ってきてもらった。僕は何でも聴いて、レコードの曲を分解して、ブルース・プレーヤーがするような演奏を独学で学んだ」

父親はその後、サンフランシスコで最初の本格的なマリアッチ・バンドを結成した。

「1962年末、クラブのオーナーが僕たち家族がサンフランシスコに引っ越すスポンサーになってくれたので、父と合流することができた。そこで僕は初めてロックバンドを結成した。転機となったのは1966年。ポール・バターフィールドが酔っ払ってしまったため、フィルモア・オーディトリアムで日曜日に行う昼公演を行うことができなくなってしまったこと。僕は代役を務め、コンサート・プロモーターのビル・グラハムの耳に留まり、彼は僕のバンドをブッキングしてくれた。僕たちには名前が必要だったので、サンタナ・ブルース・バンドと名乗ったんだ」