Fennesz, Ryuichi Sakamoto
英ブリストル拠点のCrack誌による
坂本龍一のトリビュート特集で、
フェネス(Fennesz)、
デニス・ボーヴェル(Dennis Bovell)、
コールドカット(Coldcut)らが坂本龍一に敬意を表し、彼の影響、最初の出会い、そして彼の永遠のレガシーについて語っています。
■フェネス
「80年代前半にウィーンに移って最初にしたことのひとつが、映画館で『戦場のメリークリスマス』を観ることだった。サウンドトラックは、それまで聴いていたものとは違っていて、とにかくすごかった。その後すぐに、龍一のソロ作品やデヴィッド・シルヴィアン、イエロー・マジック・オーケストラを聴くようになった。
僕たちはどのようにして知り合ったのか? キース・ロウと一緒に短期間のアメリカ・ツアーを行ったとき、何日かマンハッタンに滞在した。そのとき一緒に仕事をしたことのあるデヴィッド・シルヴィアンが、僕がこの街にいることを龍一に伝えてくれた。龍一は僕に電話をかけてきて、彼のウェスト・ヴィレッジの家に招待してくれた。彼のスタジオで何時間も一緒に音楽を演奏したり、話したり、食べたり、ワインを飲んだりして過ごした...素晴らしい一日だった。
彼は僕の仕事に多くの影響を与えた。作曲の中に空間と静寂を残すこと、適切なタイミングを考えること、たとえそれがロマンチックすぎるものであっても素晴らしいメロディから逃げないこと。(坂本龍一は)現代における最も偉大な作曲家であり音楽家の一人です。彼の音楽は永遠に生き続けるだろう。彼がどれほど素晴らしい人物であったかは、時がたてばわかるだろう」
■デニス・ボーヴェル
「龍一を知る前から、YMOのファンだった。イエロー・マジック・オーケストラを初めて聴いたのは、アイランド・レコードのクリス・ブラックウェルからアルバムをもらったときだった。そのアルバムを聴く前に、彼らが3人組のバンドで、レストランのウェイターのような格好をしていて、前腕にパッチベイ・ワイヤー(スタジオで異なるセクションを接続するために使用するワイヤー)をかけていることに気がついた。いわば、電気的な音楽のつながりを見せていた。これはいいなと思った。俺はそれがとても気に入った。“こいつらには先見の明がある”と思ったよ。
彼らは、俺の友人のサンディーと一緒にレゲエの曲も録音していた。日本で(レゲエが)生まれ変わっていくのを見るのはとても刺激的だったよ。YMOが“Behind the Mask”という曲を作っていることに気づいた。この曲では、トップラインがジャマイカのU-RoyやI-Royのようなアーティストを再現しているように思えたんだ。そのメロディが耳に残ったよ。それから、ドン・レッツが日本に行って、彼や彼のレコード会社の関係者が俺に会いたがっているので会った頃には“わあ、彼らの曲でグルーヴしているんだ。しかも、彼らは俺のを聴いてくれている!”とノックアウトされた。
龍一と俺が一緒に仕事をすることになった話。
ドンが俺のところに来て、龍一が俺に会いたがっていて、俺の電話番号を欲しがっていると言った。俺は“ああ、渡してやれよ!”と言うと、“よかった、もう渡したから”と返ってきた。電話がかかってきた。何かのイタズラかと思った。電話の向こうの人が“ドイツに機材があるので、僕が到着する前にあなたのスタジオに送ります”と言っていたのでね。トラックが到着して、この機材(納品)のサインを求められるまで、彼がドイツのクラフトワークのスタジオで仕事をしていたとは知らなかった。その時、俺は(共演が実際に)起こるのだと確信した。当時、俺はスタジオを建設中で、まだスタジオは完成していなかった。自分でテストもしてないのに、この人は“君より先に君のスタジオを使いたい!”と言っていた。これが龍一らしいというのは、後でわかったことだよ。
機材を運び込んだ後、機材が足りないことに気づき、AIRスタジオのジョージ・マーティン卿から借りた。マスターテープを通常の15インチ/秒ではなく、32インチ/秒の超高速で走らせる予定だったので、24トラックのドルビーを借りなければならなかったんだ。そこで、僕のチームにAIRスタジオから何本か借りてきてもらった。龍一が到着すると、新しいシーケンシャル・サーキット・シンセサイザーで俺を驚かせた。それまでプロフェット5しか見たことがなかったのに、プロフェット10だったんだ! そして、彼は“よし、やろう”と言った。彼はキックドラムを録音し、次にスネアを録音した。それを再生しながら、次に何を演奏するかノートに書いていた。で、それが終わると“僕はもうやったから、君は自分のことをやってくれ”と言われた。俺はダブスタイルでバウンスし始めると、彼は“ああ、これがいいんだ”と言っていたよ。
坂本龍一のサウンドは、すでに未来に旅立っているが、それは彼がそれをした時が過去だったから。彼の音楽は将来も生き続けるだろう。なぜなら、彼が作り出した音、彼がシンセサイザーから絞り出した音から学ぶべきことはたくさんあるからだ」
■コールドカット
ジョナサン・モア
「美術大学時代の70年代にサディスティック・ミカ・バンドのファンだった僕にとって、ドラマーの高橋幸宏が坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラを結成したことは、(すでに評価していたので)大きな飛躍というものではなかった。(英TV番組)『Old Grey Whistle Test』で“Cosmic Surfin’”を演奏しているのを見たときは感動した。“Firecracker”はクラブの人気曲となり、80年代半ばには多くのレコードにサンプリングされた。まさに先進的なミュージシャンだった」
マット・ブラック
「“Firecracker”はクラシックなブレイクビーツ・ヒップホップの人気曲で、電子音が他の曲とは一線を画していた。ブレイクとエレクトロの間のギャップを埋めるもので、後に重要な意味を持つようになった」
ジョナサン・モア
「初期のイエロー・マジック・オーケストラのレコードで示された電子音楽の青写真から、ソリッド・スティールのラジオ番組で使用された豪華なアンビエントの旅やサウンドトラックまで、龍一は僕たちの作品に非常に多くの影響を与えてくれた」
マット・ブラック
「ロックダウン中のメンタルヘルス・ベネフィットのために、龍一に@0アルバム用に独占的なトラックをリクエストしたところ、快く応じてくれた。彼の威厳ある名前と素晴らしい音楽があったからこそ、他の一流の才能を引き寄せることができた。ソロピアノを演奏する彼のトラック“Aqua”はアルバムをリードしている」
マット・ブラック
「Ninja Tuneからリリースした『Prayer / Salvation』は、TCO、Fink、Andrea Parkerがミックスしているので、そこでもつながることができた。より広い意味で、彼の作品は、クラシックから前衛的なエレクトロニクスやダンス実験まで、幅広いスタイルをカバーしていて、インスピレーションを与えてくれるものだった。彼は現代の折衷主義のパイオニアだったんだ」
このほか、anu、Midori Hirano、Alec Fellman、Coby Sey、Kasimyn、James Heather、Jun Kamodaが語っています。
詳細は以下のURLのページでご覧になれます。
https://crackmagazine.net/article/lists/life-works-and-legacy-10-artists-on-ryuichi-sakamoto-and-his-everlasting-impact/