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デイヴィッド・カヴァデール 87年のヒットアルバム『Whitesnake』を振り返る ジョン・サイクスとは二度と仕事をしないとも語る

2023/05/16 16:08掲載
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Whitesnake / Whitesnake [30th Anniversary Edition]
Whitesnake / Whitesnake [30th Anniversary Edition]
ホワイトスネイク(Whitesnake)デイヴィッド・カヴァデール(David Coverdale)は、Metal Edgeのインタビューの中で、1987年のヒット・アルバム『Whitesnake』を振り返る。その中で、カヴァデールは、ジョン・サイクス(John Sykes)の才能を称賛するものの、サイクスとは二度と仕事をしないだろうと述べており、2人の再会は期待できないようです。

Q:ホワイトスネイクのサウンドを考えるとき、87年のセルフタイトルのアルバム『Whitesnake(邦題:白蛇の紋章~サーペンス・アルバス)』を思い浮かべる人が多いと思います。あのアルバムが自分を定義していると感じますか?

「俺はアイデンティティに悩んだことは一度もない。あのアルバムが出たとき、多くのイギリスの評論家が“ホワイトスネイクはアメリカ人になった”と言った。でも俺は“これは音楽なんだよ、頼むよ”と思った。仲の良い友人の中には本当に素晴らしいメタルアーティストもいるので、ホワイトスネイクが何かと一緒にされるのは嫌だった。こういう比較は俺にとって無意味なんだ。どんなものであれ、俺がやることはすべて血と汗と涙と情熱とセックスなんだ。ホワイトスネイクの核となるのは、それらが土台となる要素なんだよ」

Q:87年のアルバムの成功は、あなたを驚かせたのでしょうか?

「多くの人がこのアルバムをホワイトスネイクの最高のアルバムだと感じている。誤解しないで欲しいんだけど、俺は87年のアルバムに感激しているんだけど、お気に入りを選ぶことはできない。でも、間違いなく、俺は87年のアルバムとその出来に満足しているよ。

俺はディープ・パープルで仕事をして、その後ホワイトスネイクを結成するために脱退した。何枚もアルバムを作ったけど、87年のときには300万ドル近い借金があった。あのアルバムがヒットするとは思ってもみなかった。まったく何もないと思っていた。でも、ラジオやMTVで“Still of the Night”が流れたことで、突然ヒットしたんだ。『Slide It In』が好きだった人たちは、あのアルバムを待ち望んでいたし、期待もしていたと思うけど、あれほど記念すべき成功作になるとは知る由もなかった。MTVは以前からあったとはいえ、まだ比較的新しいものだった。“Still of the Night”が当たってから、まさに狂気の沙汰となった」

Q:あのアルバムの裏にはどんな秘策があったのでしょうか?

「『Slide It In』の後、正直なところ、87年のアルバムがうまくいくとは思っていなかった。今回もまた、さまざまなプレーヤーを起用し、どのプレイヤーも素晴らしかったけど、俺の中では当初、この編成は安定したものとは言えなかった。でもそこにはジョン・サイクスがいて、サイクスはホワイトスネイクで初めてバンド・リーダーになれる男だと感じていた。もうひとつは、俺の祝福のもとでディープ・パープルに再加入したジョン・ロードを失ったことだった。でも、87年のアルバムではドン・エイリーにキーボードを録音してもらって、そのサウンドをうまく利用できたと思う。ジョン・サイクスは大量のギターを録音したけれど、ギターに頼っていなかったので、そういったキーボードの存在は大きな違いだった」

Q:ゲフィンがこのアルバムに力を注いだことは、どれほど重要な要素だったのでしょうか?

「ゲフィン・レコードが関わってくれたことは、とても重要だった。彼らの意見や指導は俺を魅了し、すべてを考慮した。でも、正直なところ、俺たちが書いたことに関しては、何も妥協していない。ゲフィンがアルバムのアメリカ盤から外した曲のひとつ“Looking for Love”は、ホワイトスネイクのベスト・ソングのひとつだと思っている。間違いなく俺の好きなホワイトスネイクの曲の1つだ。俺が好きなホワイトスネイクの全ての要素を取り入れて、それを高めている」

Q:ジョン・サイクスは、あの時代の業績により、ホワイトスネイク信者の間でほぼ神話的な地位を獲得しています。彼は完成した作品にとって、どのように不可欠だったのでしょうか?

「知っての通り、俺らの間で揉め事があって、それは残念なことだった。でも、ジョンは昔も今も素晴らしい才能を持っている。音楽的な相性は最高だったんだけど、個人的にはうまくいかなかった。どんなに素晴らしいアルバムを一緒に作っても、人間としてつながることができなかったというのが実情だ。その関係にはクリエイティブなマジックがあったように思えるが、マイクと楽器を置いた瞬間にそれは止まってしまった。ジョンはあのアルバムに欠かせない存在であり、優れたライヴ・プレイヤーでもあった。でも、そこにはない多くの重要な側面があった。そうなるはずじゃなかった。ジョンがいたことで、物事は爆発したんだ。どん底だったのは、彼が俺を自分のバンドからクビにしようとしたときだろう。想像できるように、それはあまりうまくいかなかった(笑)」

Q:ジョンがホワイトスネイクを去ってから、あなたは彼と話しましたか。

「何年か前に共通の知人と話していて、“長い間、ジョンとは何も話していない”と言うと、その知人は、俺がアルバム『Into the Light』のデモを制作している間に、ジョンと俺に話をさせた。15年ほど敵対していたわけだけど、俺たちは話をして仲良くなったんだ。再び彼と一緒に仕事をしようという考えが頭をよぎったけど、話をすればするほど、俺自身も大きく変わったし、ジョンはずっと独立してやってきたのだから、うまくいくわけがない。

“ケミストリーはうまくいかず。もう一度同じことを繰り返すようになる。それは困る”と思ったんだ。正直なところ、人生のこの時期に後悔するようなことはしたくない。ファンをがっかりさせてしまうかもしれないけど、ジョンはとても愛され、尊敬されるプレイヤーであることは分かっているので、成功を祈っているよ。しばらく連絡を取っていないので、彼が元気でいることを祈っている。ジミー・ペイジ、ジョン・ロード、そして偉大なリッチー・ブラックモアから学んだこと、それは“自分が何かを教えたり、見返りを得たりすることができないと思っているなら、一緒に仕事をする意味はない”ということなんだ」