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トーキング・ヘッズのクリス・フランツ、サイアー・レコード契約の裏話/パンクを流すことに抵抗があったラジオ局がヘッズを流した理由を語る

2023/04/06 15:33掲載
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Talking Heads
Talking Heads
1976年、トーキング・ヘッズ(Talking Heads)がサイアー・レコード(Sire Records)と契約。彼らと契約した同社の共同設立者シーモア・スタイン(Seymour Stein)の訃報を受け、ヘッズのクリス・フランツ(Chris Frantz)はスタインを追悼。契約の裏話や、当時パンクを流すことに抵抗があった米国のラジオ局がヘッズを流した理由について、米Varietyに語っています。

「彼が初めて(マンハッタンのライヴハウス)CBGBを訪れたのはラモーンズを見るためだった。彼の妻リンダは、彼らが新しくて素晴らしいから契約するべきだと考えていたので、彼にラモーンズを見るように言っていた。彼はクラブの外の歩道で(パティ・スミスの長年のギタリスト)レニー・ケイと話しながらラモーンズの出番を待っていた。そのとき、サポートバンドの演奏が始まったのが聞こえた。

シーモアの頭の中で何かがひらめいたのか、レニーに“あれは誰だ?”と言った。彼は“ああ、あれはトーキング・ヘッズだ”と答えた。その音楽はまるで蛇使いのようにシーモアを惹きつけ、興奮がこみ上げてきて、彼は急いで中に入り、クラブの中を駆け抜けてステージの前に立った。若いトリオが30分ほど演奏するのを見て、彼はすっかり恋に落ちてしまった。彼はティナ(ウェイマス)がステージから機材を降ろすのを手伝い、僕たちに彼のレーベルであるサイアー・レコードに所属しないかと言った。

翌日に電話をくれるようシーモアに頼んだところ、彼は電話をくれたので、ティナ、デヴィッド(バーン)、僕の3人が住み、リハーサルをしているクリスティ・ストリートのロフトでミーティングをすることになった。僕たちはシーモアに、まだレコードを作る準備ができていないことを説明した。いくつかのデモを録音していて、それらは興味深いものだったけど、何度聴いても飽きないというものではなかった。シーモアはがっかりしていたが、僕たちは連絡を取り合うと約束した。

それから1年半後、まだトリオのままだった僕たちは、ついにレコードを作る時期が来たと感じた。シーモアは大喜びだった。彼は僕たちをリトル・イタリーにある歴史あるイタリアン・レストランPatrissy'sに連れて行き、そこで彼はビルボード誌にいた頃のこと、シド・ネイサンのキング・レコードでジェームス・ブラウンと働いたこと、偉大なライター兼プロデューサーのリチャード・ゴッテラーとサイアーを設立したことなど、音楽ビジネスの話を聞かせてくれた。

シーモアは僕たちと相性が良かった。彼は僕たちを理解し、僕たちの奇抜さを受け入れてくれた。彼は、僕たちが賢くてアートの知識があることを気に入ってくれた。当時、トーキング・ヘッズを理解し、気にかけてくれるレコード会社の人間はあまりいなかったけど、シーモアは最初から僕らを信じ、そのサポートが揺らぐことはなかった。

当時アメリカのラジオでは、パンク・ミュージックを流すことに大きな抵抗があった。番組ディレクターは“パンクは流さないよ。私たちは良い音楽しか流さない”と言っていた。僕たちがCBGBから出てきたバンドで“Psycho Killer”という曲があったので、僕たちがパンクだと思い込んだいた。シーモアにはアイディアがあった。フランスのヌーヴェルヴァーグ映画に触発された彼は“ニュー・ウェイヴ”という言葉を生み出した。彼は“トーキング・ヘッズはパンクではない。トーキング・ヘッズはニュー・ウェイヴだ”と言うと、ラジオ局の人たちは“そうなの?じゃあ、ニュー・ウェイヴを流そうか”と言った。アル・グリーンの“Take Me to the River”の僕たちのヴァージョンが、いつの間にかAMやFMでオンエアされるようになったんだ」