1980年代、実験的なポピュラー音楽を次々とリリースし、後の音楽に大きな影響を与えたZTTレコード。関係者がそのストーリーを、英Classic Pop Magazineの特集で振り返っています。
ZTT(Zang Tuum Tumb)レコーズは1983年に設立され、音楽プロデューサーの
トレヴァー・ホーン(Trevor Horn)が音楽を管理し、トレヴァーの妻であるジル・シンクレアがビジネスを担当、そしてNME誌のジャーナリストだったポール・モーレイがマーケティングを担当することで始まりました。
設立当初、レーベルが誰も契約できずに苦労したと、当時のエンジニアで、後に
アート・オブ・ノイズ(Art of Noise)を結成するゲイリー・ランガンは振り返っています。
「ある日の午後、トレヴァーを車でマスタリングセッションに送ったとき、彼は“ああ、神様、レーベルを始めるのにバンドが必要なんです”と言っていた。
僕は、トレヴァーのフェアライト・プログラマーだったJ.J.ジェクザリックと一緒に仕事をしていた。僕たちはサンプラーを使って何曲か作って遊んでいたんだけど、でも、当時作っていたイエスのアルバムからドラム・トラックを盗んでいて、それはとても違法なことだった。僕はカセットを取り出して“白状するよ、トレヴァー、JJと僕はあるアイディアで遊んでいたんだ”と言い、後にアート・オブ・ノイズのBeatboxになるデモを聴かせた。
彼は“これはすごい。これを(アイランド・レコードの)クリス・ブラックウェルに渡そうと思う”と言った。クリスは次の週末にニューヨークへ飛んで、デモカセットをクラブで聴かせた。そして帰ってきてトレヴァーにこう言った。“この人たちと契約して、君のレーベルの最初のアーティストにするんだ!”」
こうしてアート・オブ・ノイズが誕生しました。ZTTにとって最初の成功でした。
そして、ZTTの決定的な瞬間は、英Channel 4の音楽番組『The Tube』での偶然のパフォーマンスから始まりました。
フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド(Frankie Goes To Hollywood)のベーシスト、マーク・オトゥールは、こう振り返っています
「『The Tube』は、地元のバンド、デッド・オア・アライヴを撮影するためにリバプールにスタッフを送り込んだ。どうやら、スタッフがリバプールに到着したとき、バンドが見つからなかったらしい。でも、もうそこにいるんだから、何か撮ったほうがいいんじゃないかと思ったんだよ。
誰かがフランキーを注目の新進気鋭のバンドにして推薦してくれたみたいで、それで、リバプールのThe Stateという人気のクラブで、最近自分たちで録音した“Relax”のデモに合わせてパフォーマンスをすることになったんだ。それが全国ネットで放送されたんだよ。
そのころ、ロンドンのサーム・スタジオでは、イエスがトレヴァー・ホーンとレコーディングをしていた。彼らはテレビを見ながら休憩していたんだけど、トレヴァーはコントロールルームで自分の仕事していた。その時、『The Tube』で俺たちの映像が流れて、俺たちが革の服を着て、ムチを持った女の子を2人連れていることに気づいたんだ。
トレヴァーはそのビデオを気に入ったので、俺たちのマネージャーにZang Tuum Tumbから連絡があった。そうやって俺たちはブレイクしたんだ。純粋な運とたくさんの努力の結果だよ」
「Relax」はポール・モーレイのマーケティング活動のおかげで、ゆっくりとイギリスのトップ10にランクインしていった。もちろん、曲と映像のあからさまなセクシュアリティも手伝いましたが、これは、作られたものではなく、バンド自身から発せられたものでした。
ランガンは「フランキーのオリジナル映像を『The Tube』で見たら、まったくとんでもないことになっていた。このバンドが持つ非道さは、完全に彼らのものだったんだ」と回想しています。
マーク・オトゥールは「フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドがZang Tuum Tumbを作ったんだ。決してその逆ではなかった。トレヴァー・ホーンはフランキーに多大な貢献をしてくれたが、フランキーをレーベルから取り上げてしまったら、Zang Tuum Tumbは当時の他の独立レーベルと何ら変わらなかっただろう。Zang Tuum Tumbはフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのおかげで知られるようになったんだ」と主張しています。
成功の味をしめたホーンは、さらに多くのものを求め、ZTTレーベルを発展させ始めました。
ランガンは「そう、計画があったんだ」「トレヴァーは、(モータウンの前身)タムラ・モータウンのもう一つのシナリオを再現したかった。つまり、レコードの最初の4小節で、それがトレヴァー・ホーン/Zang Tuum Tumbの作品であることがわかるようにしたんだ。それがZang Tuum Tumbの精神だった。他のレーベルがそのようなことを重視しないのとは異なり、内容よりもスタイルを重視するという意味で、とても高いブランディングの要素を持っていたんだ」と話しています。
レーベルはさらに何年もの成功を収めますが、その後、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドはセカンド・アルバム『Liverpool』の売り上げに失望した後に解散し、アート・オブ・ノイズも解散します。
ランガンは、このレーベルをライバルから引き離したのは何だったのかと聞かれると、彼は迷うことなくこう答えています。
「目指したのは、素晴らしい革新性と思考だった。常に既成概念にとらわれず、当時他の人がやっていなかったことを自信をもってやっていた。人生のあらゆる素晴らしいことと同じようなもので、素晴らしい歯車があっても、それが全部はまわらないことがある。でも、Zang Tuum Tumbで起こったことは、すべての歯車がぴったり合うような、そんな素晴らしい状況のひとつだった。素晴らしいクリエイティビティだった。素晴らしい時間だった」