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ロジャー・ウォーターズ、シド・バレットのピンク・フロイドでの最後の日々を振り返る シドの脱退はバンドの「存続に関わる危機」だった

2022/10/12 16:11掲載
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Pink Floyd
Pink Floyd
ロジャー・ウォーターズ(Roger Waters)はポッドキャスト『Joe Rogan Experience』のインタビューの中で、シド・バレット(Syd Barrett)ピンク・フロイド(Pink Floyd)での最後の日々を振り返っています。バレットの「悲劇的」な衰えを話し、また彼の脱退がピンク・フロイドの「存続に関わる危機」だったとも語っています。

ウォーターズによると、バンドが1967年6月にセカンド・シングル「See Emily Play」をリリースしたとき、バレットはすでに奇妙な行動をとっていたという。その後、英BBCの音楽番組『Top of the Pops』への出演を振り返って、ウォーターズは次のように語っています。

「『Top of the Pops』のとき、楽屋で(シド・バレットは)心配そうな顔をして、少し怯えていた。彼は“ジョン・レノンはこんなことしなくていい”と言い出した。

彼は口パクのポップ番組に出ることに不安を感じていたので、俺たちは“シド、これが僕たちがこの4、5年間目指してきたことなんだ、『Top of the Pops』に出て稼ぐんだ! しっかりしろよ、さあ、やろうぜ”と言った。でも、彼はそこから決して腰を上げることはなかった。

あと何曲か書いたけど、特に目立ったものはなかった。彼はどんどん離れていって、完全におかしくなって、意味がわからなくなったんだ。

何が問題なのか、彼の家族を巻き込んで、いろいろと試行錯誤をした。何度も精神科に通わせようとしたけど、彼は決して入ろうとせず、そして、ますますおかしくなっていった」

「俺たちはロサンゼルスのキャピトル・タワーで会議があって、そのあと通りを歩いていた。ロサンゼルスのハリウッドとヴァインの信号で止まると、彼は俺を見て微笑み、“ラスベガスはいいところだね”と言った。でも、俺たちはロサンゼルスにいた。彼はすでに自分がどこにいるのかわからなくなっていたんだよ...。その後、彼の顔が暗くなり、地面を見下ろして一言、“People”と吐き捨てたんだ。その一言に集約されるように、何もかもが意味不明だったんだ。

俺たちは皆、とても若く、自分たちの道を切り開こうとしていた。その頃には、デイヴ (デヴィッド・ギルモア) はすでにバンドに加わってギターを弾いていた、シドは弾けなかったからね...本当にできなかった。俺たち2人はその後、彼のソロ・アルバムのプロデュースを手伝ったけど、かなり支離滅裂で、彼に何かをさせるのは難しかったよ」

ウォーターズの回想によると、バレットがピンク・フロイドを脱退した後、彼はバレットにほとんど会わなくなりました。

「彼はケンブリッジに帰り、とても孤独な生活を送っていた。その後、彼の妹のローズマリーと“会いに行ってもいいのか?”と話したんだけど、“いいえ、しないで”と彼女は言っていた。俺は”なぜいけないの?”と聞くと、彼女は“それが何であれ、前に起こったことを思い出すと、彼はとても興奮して動揺します。彼はそれを好きではないのです。過去の人に会いたくないし、むしろ放っておいてほしいです”と言っていた。彼は、60歳で亡くなるまで、ケンブリッジで一人暮らしをしながら、少しばかり絵を描いていたそうだよ。他に何と言ったらいいのか分からないよ、本当に。悲劇的な出来事だった」

ウォーターズはバレットの楽曲の素晴らしさを称えつつ、メイン・ソングライターであるバレットの脱退がバンドにとっていかに「存続に関わる危機」であったかについても話しています。

「当時ピンク・フロイドにいた俺たちは(彼の脱退を)存続に関わる危機としても経験していた。“どうしよう、あいつがマジで曲を書いているんだぞ!”ってね。まあ、20%くらいは俺が書いたんだけど、それは何でもなくて、シドの曲は違うものだった。(シドの曲には)イギリス的なロマンティシズムがあった。とても美しかった。(“Bike”を少し歌う)メーターや、歌詞がメロディーや拍子記号やテンポと一体化しているところなど、とても風変わりなんだ。そういう風変わりな小曲がたくさんあって、どれもイギリス・ロマン派の伝統的なものだった。

俺たちは“どうしたら生き残れるのか?”と考えた。バンドで曲を書いている人がおかしくなってしまったら、他の誰かが書き始めない限り、基本的におしまいだ。幸運なことに、俺は書き始めた。彼は大きな損失だったから、笑うつもりはないんだ。俺は彼のことが大好きだった」