モトリー・クルー(Mötley Crüe)は1992年に脱退したヴィンス・ニールの後任として
ジョン・コラビ(John Corabi)を迎えて1994年にアルバム『Motley Crue』をリリース。しかし、コラビ在籍時代はこの1枚のみで終了しました。コラビは、モトリー・クルー脱退後の数年間の経済状況について口を開き、トラック運転手として1年間働いたことも振り返っています。
アルバム『Motley Crue』は全米チャート初登場7位を記録し、発売後数ヶ月で全米レコード協会からゴールド認定を受けるなど成功を収めました。そのため、コラビは豊かな生活を送っていたと思われるかもしれませんが、実際にはそうではありませんでした。
コラビはLogical Logisticsの新しいインタビューの中で、こう話しています。
「モトリーをやったから、誰もが俺を億万長者だと思い込んでいるんだよ。モトリーに入った当初は、ボーナスや出版、前金など、いろいろとお金を稼いだよ。でも同じ頃、1992年にモトリーに加入して97年にバンドを脱退したんだけど、その5年の間に息子は糖尿病と診断され、母はガンと診断されたんだ。
幸か不幸か、俺は彼らの経済的な面倒を見ることになったんだ。それから、税金も払わないといけないしね。覚えてるのは、税金の小切手が2枚あったこと。最初は13万9000ドルで、翌年は21万9000ドルの税金を払わなければならなかったんだ。すごいよね。5年経つ頃までは、そのお金とそれ以上のお金で生活していたんだけど、危険なほど少なくなり始めていたんだ。音楽業界も変わってきていて、80年代のバンドの多くはレコードが売れなくなってきていた。変な時代だったんだ」
コラビは他のバンドでの仕事を見つけるのにそれほど苦労することはありませんでしたが、モトリー以降のコラビの仕事はプロのミュージシャンであることだけではありませんでした。ラット在籍中の1年間、トラック運転手として働いていたことを思い出して、こう話しています。
「なぜそうしたかというと...俺は経済的に切羽詰まっていたわけじゃないんだ。ラットは1年間休んでいたんだ。その時、養育費と慰謝料を払っていたと思う。月に2,500ドル払っていた。2度目の離婚を経験していて、女の子が戻ってきたり、いなくなったり、戻ってきたりというのような状態だったんだ。俺は、ああ、なんてこった、となっていて、ちょっとした変化が欲しかったんだ。それで“よし。3週間でトラック運送の免許を取ろう。この仕事のやり方を学ぼう”と思ったんだ。
少し前に友達に話したんだ。変な話なんだけどね。俺は人生のほとんどをツアーバスで旅してきたけど、ツアーバスの旅はたいてい夜で、つまらないものを見てるんだよ。トラックを運転するようになって、アメリカ中の商品を移動しているところを見たとき、信じられないような光景がいくつかあったんだ。すごいなと思ったね。アメリカのあちこちにあるんだよ......。今までずっとツアーで移動してきたけど、トラックを運転するまでは見たこともないような場所があったんだ。すごく楽しかったよ。
一年近くやっていた。ラットから電話があって“ツアーに出る準備をしているんだ”と言われたので、俺は(運送会社の)ボスに電話して“ツアーに戻るよ”て言ったんだ。面白かったよ。多くの人が俺のことを知らないし、俺の経歴についても何も知らないからね。ボスに“またツアーに戻るよ”って言ったら、“何言ってるんだ”って感じだった。“実はミュージシャンなんだ”と言って、自分が誰なのかとかいろいろ話したりしたんだ。そして彼にキーを返して“ありがとう、とてもいい時間を過ごせたと。最高だった。またツアーに出るよ”と言ったんだよ。
ほぼ1年間、それをやった。クールだったよ。精神的にもすっきりした、ただ運転して、考えていただけだったからね。それから、ちゃんとした生活もできたし、自分と息子のための健康保険にも入ったんだ。クールだったよ。素晴らしい時間を過ごした。最高だった」。