Linda Hoover / I Mean To Shine
後に
スティーリー・ダン(Steely Dan) を組む
ウォルター・ベッカー(Walter Becker) 、
ドナルド・フェイゲン(Donald Fagen) 、
ジェフ・“スカンク”・バクスター(Jeff "Skunk" Baxter) 、デニー・ダイアスが参加し、ほぼ半分がベッカーとフェイゲンのソングライティング・デュオによる楽曲でしたが、契約問題のため、発売が見送られ、その後、52年間もお蔵入りとなっていた、
リンダ・フーヴァー(Linda Hoover) の幻のデビュー・アルバム『I Mean To Shine』。2022年6月についにリリースされ、現在はYouTubeほかで聴けます。
リンダ・フーヴァーは発売にあわせて、英ガーディアン紙の取材を受け、当時なぜ発売されなかったのかについて説明しています。
スティーリー・ダンのプロデューサーとして知られるゲイリー・カッツが、イベントでフーヴァーの演奏を聴いて興味を持ち、カッツはさまざまなレコード会社のオーディションをセッティングして、5年間の苦闘の末、1970年初めにルーレット・レコードのモリス・レヴィが興味を示しました。この取引を有利に進めるため、カッツは曲の音楽出版権のほとんどを彼に渡すと約束し、レヴィはフーヴァーと契約しました。
レコーディング・セッションのために、カッツは友人のケニー・ヴァンスに目をつけました。彼は、自分がマネジメントしている若いソングライター2人の作品を売っていました。それがベッカーとフェイゲンでした。カッツ、ベッカー、フェイゲンの3人は、フーヴァーのアルバムに収録する曲を考えます。5曲はベッカーとフェイゲンの曲で、3曲は彼女の曲でした。そのほか、スティーヴン・スティルスの「4+20」、ザ・バンドのリチャード・マニュエルの曲、ヴァンスの友人の曲を収録することを決めます。
アルバムを作り上げ、アルバム・ジャケット写真を撮った後、すべてが崩れ去ります。
ルーレット・レコードのモリス・レヴィはアルバムのアートワークをチェックしていたとき、フーヴァー以外の曲がすべて他の音楽出版社が権利を所有していることに気づきました。ヴァンスはすでにベッカーとフェイゲンと契約しており、他のメンバーも同様に契約済みだったのです。これにレヴィは激怒し、発売を取りやめます。
カッツは何とかしてみんなをまとめようと、彼らをコディ・キャニオン(Cody Canyon)というグループにしますが、結局は失敗に終わりました。
翌年、カッツはロサンゼルスのABCレコードから仕事を依頼され、ベッカーとフェイゲンを連れて行きます。そして1年もしないうちに、今度はスティーリー・ダンとしてレコーディングをすることになりました。
バクスターは、フーヴァーに一緒にカリフォルニアに行くよう説得し、『I Mean To Shine』で起きたことは忘れるようにと促しました。
「彼は私よりもずっと状況を把握していました。私はただ敗北感を味わっていた」と彼女は話しています。「しばらくニューヨークをぶらぶらして、他のミュージシャンの友人たちと仕事をしようとしたけれど、お金がなくなってしまって、結局オーランドの実家に戻ってしまったのよ」
1973年、フーヴァーはジェイ・ウィリンガムという若い学生と結婚し、二人の息子に恵まれました。彼女はライヴとレコーディングを続け、レストランやクラブ、フロリダの音楽祭で演奏しました。
数十年後、彼女とウィリンガムは、ルーレット・レコードの作品群がライノ・レコードに売却されたことを知り、『I Mean To Shine』のオリジナル2トラックテープをクリーンアップしたデジタル版を同社に送りました。彼らはそれを「見事だ」と評し、興味深い歴史を持つ無名のアルバムや知られざるアルバムを発掘することに特化したレーベルOmnivore Recordingsに送る許可を得ました。
そして今、フーヴァーはオリジナル・プロデューサーであるカッツの祝福を受け、アルバム『I Mean To Shine』がついに日の目を見ることになったのです。
アルバムでは、ジョエル・ブロツキー(当時すでにドアーズ、ヴァン・モリソン、ザ・ストゥージズなどのジャケットを飾っていた)が撮影した1970年のジャケットも採用されています。
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