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ハービー・ハンコック、新アルバム/マイルス・デイヴィス・バンド時代/「Rockit」/ジャズは死んだのか?について語る

2022/06/28 16:39掲載
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Herbie Hancock
Herbie Hancock
ハービー・ハンコック(Herbie Hancock)は、長年制作している新アルバムについて、マイルス・デイヴィス・バンド時代について、「Rockit」について、そしてジャズは死んだのか?ジャズの未来はどこにあるか?について、英ガーディアン紙のインタビューの中で語っています。

新しいアルバムについてはこう話しています。

「新しいアルバムは長い時間がかかっていて、まだ完成していないんだけど、テラス・マーティンがプロデュースしていてサンダーキャット、ロバート・グラスパー、カマシ・ワシントンも参加しているし、ケンドリック・ラマーも参加する予定だよ。今は彼らの世紀で、僕は前の世紀の人間だから、彼らにアイデアを求めているんだ。彼らの中には、父親や母親がジャズミュージシャンだった人もいて、その感覚を受け継いでいる人もいれば、勉強して身につけた人もいるんだ」

Q:バンドリーダーとしてのマイルス・デイヴィスはどんな人でしたか?

「彼はこう言っていた(かすれた、マイルスのようなささやき声で)“拍手喝采される演奏のためだけにお金を払っているわけではない”。彼は、ステージで実験するために金を払っているんだと言っていた。彼はこうも言っていた。"新しいことに挑戦してほしい""真新しいことに”。僕は彼に“でも、うまくいかないこともあるだろうし、じゃあ観客はどうするんだ?”と言うと、彼は“心配するな。観客は俺が集める”と言っていた。彼は、挑戦すること、刺激されること、変化球を投げられることが大好きだった。野球で言えば、ホームラン王のようなもので、どんなボールでも打ち返し、スタンドの向こう側へ飛ばしてしまうようなものでした」

Q:マイルスは、あなたが彼と過ごした期間の後期には電子楽器を演奏することを勧めていましたね。

「僕は大学で電気工学を専攻していたので、エレクトロニクスについてある程度理解していたので、わくわくしました。実際、僕が初めてコンピュータを手に入れたのは1979年だった。まだ黎明期だった。そのパソコンは今でも持っているよ。Apple II Plusで、RAMは48K、プログラムはカセットに保存しなければならなかった。でも、音楽界でコンピュータが重要になることは分かっていたので、出会ったミュージシャン全員にコンピュータの仕組みを学ぶように勧めていたよ」

Q:マイルスとの期間はどのように終わったのですか?

「1968年、僕は結婚した。妻に“ニューヨークで盛大な結婚式を挙げて、タダ飯食らいの友人を呼んで、いらないプレゼントをもらうか、またはリオデジャネイロのファーストクラスのチケットをとって、そこの一流ホテルで新婚生活を送るか、どっちかにしよう”と言ったんだ。彼女は“私のチケットはどこ?”と言った。

ブラジルで食中毒になり、医者に肝臓が腫れていると言われ、あと2週間ほど滞在することになった。マイルスと一緒に演奏するはずだったんだけど、命を危険にさらしたくないから、もう1週間滞在したんだ。戻ってきたら、彼はすでに僕の代わりにチック・コリアを起用していた。後でわかったことだけど、マイルスは僕やドラマーのトニー・ウィリアムス、サックス奏者のウェイン・ショーターがそれぞれレコード契約を持っていることを知っていて、自分のバンドから抜けさせようと話していたらしいんだ。彼は、チックをグループに入れたら、トニーとウェインが抜けたときに一からやり直す必要がないことに気づいたんだ。

でも、僕はこのバンドに恋をしていた。僕たちはとても素晴らしい時間を過ごしていたし、マイルス・デイヴィスの伴奏をすることほど素晴らしいことはない。彼のやることは常に天才的だった。ウェイン・ショーターもそうだ。僕はどうすればいいのか、わからなかった。でも、前に進むことで、これまで探求してこなかったキャリアの新しい側面が開かれたんだよ」

Q:ヘッドハンターズは、一般のリスナーを取り込もうとする試みだったのでしょうか?

「ムワンディシの最後の1年半は、スライ・ストーンやジェームス・ブラウンをたくさん聴いて、それを気に入っていたんだ。僕はシカゴ出身で、ブルースとR&Bの街なので、自分のルーツでもあるんだ。宇宙モノをやっていた僕は、今度は地球モノが欲しくなったんだ。それで1973年にヘッドハンターズを始めたんだ」。

Q:1983年のアルバム『Future Shock』とそのブレイク・シングル「Rockit」は、あなたがヒップホップの世界に足を踏み入れるきっかけとなった作品ですね。

「僕の親愛なる友人マリア・ルシアンの10代の息子クリシュナはパーカッショニストで、彼からマルコム・マクラーレンの“Buffalo Gals”を探した方がいいと言われたんだ。彼は“面白い音があるかもしれない”と言っていた。僕のアシスタントのトニー・マイロンは、いつもアンダーグラウンドなものを探していて、ビル・ラズウェルとマイケル・バインホーンという、他人のレコードをプロデュースしたり、自分たちの(マテリアルとしての)レコードを作っているミュージシャンと出会った。僕は“スクラッチで何かやりたいんだ!”と言った。最初に取り組んだのは“Rockit”で、僕は“この新しいメンバーでレコードを作ろう”と決めたんだ。“Rockit”はとても大きな存在になり、すべてを開放した。ちょうどラップが流行り始めた頃で、シーン全体が爆発したんだ。そして今に至るわけだよ」

Q:ジャズはもう何十年も死んでいると言われていて、あなたが手がけたデイヴィスの『On the Corner』のようなレコードがジャズを殺したとも言われてきました。ジャズは死んだのでしょうか?ジャズの未来はどこにあると思いますか?

「ジャズはとてもオープンな音楽だから、それを殺すのは難しい。人は自分のキャリアを自分で殺すことができる。ひとつの音や時代に閉じこもってしまうと、最初に出会ったオーディエンスを超えることは難しいし、自分が年をとるにつれてオーディエンスも年をとっていく。僕にとっては、それはエキサイティングなことではない。僕は、どんな年齢の観客も惹きつけることができるようなオープンな存在でありたいと思っている。だから、若い人たちと一緒に仕事をすることが多いんだ。彼らは未来であり、僕は常に前を向いている。僕が若い頃、前の世代のミュージシャンに本当に助けられ、励まされ、曲の構成に対する考え方の間違いを教えてもらった。僕もそろそろ、若いミュージシャンにバトンタッチする時期なのでしょう。でも、まだ離れるわけにはいきません」