ディーヴォ(Devo)のマーク・マザーズボウとジェラルド・キャセールは、英国の新聞ガーディアン紙の企画で、ファンから寄せられた様々な質問に答えています。
「デヴィッド・ボウイとのレコーディング・セッションが日の目を見ることはある?」「洗濯機をリズムセクションに使って曲を作ったというのは本当?「ニール・ヤングとのコラボはどのように実現したの?」「ジョニー・ロッテン(ジョン・ライドン)がディーヴォに参加したという話について」など。POLYSICSについても話しています。
Q:デヴィッド・ボウイとのレコーディング・セッションが日の目を見ることはあるのでしょうか?
キャセール「ボウイは『Q:Are We Not Men? A:We Are Devo!』をプロデュースすることになっていたんだ。しかし、彼は複雑なスケジュール抱えていたので、ブライアン・イーノにロックオンしたんだ。でも、ボウイが(ケルンの)スタジオに現れたんだ」
マザーズボウ「機材をセットアップしている間、人がたむろしていたんだ。(ディーター)メビウス、(ハンス・ヨアヒム)ローデリウス、ホルガー・シューカイとかね。結局、ボウイとイーノとジャムって、2トラック・テープに録音したんだ。どんなものでも、いつかは光が当たるものだから、きっと出てくるよ」
Q:1stアルバムの制作では、イーノとの間に緊張関係が生まれ、その結果、イーノの影響力が弱まったように思います。今、イーノにリミックスを依頼し、彼のアルバムに対するヴィジョンを提示することは可能でしょうか?
マザーズボウ「ブライアンは僕たちがやりたいことをやらせてくれたので、一緒に仕事をするには最高だった。イーノとボウイは夜になると、チベットの猿の鳴き声のようなものを僕らの曲に追加していたんだけど、いくつかは使ったけど、ほとんどは使わなかった。彼はそれを僕たちに押し付けたことはなかったよ」
キャセール「その緊張感というのは作り話だね。本当の緊張感ではなかった。ブライアンは禅の時代に入っていたしね。彼のようにきれいな曲にはしたくなかったけど、決して対立することはなかった。僕たちは彼のことが好きだったしね。今、彼によるそれらの曲のリミックスを聴いてみたいね。それはそれで面白いかもしれない」
Q:洗濯機をリズムセクションに使って曲を作ったというのは本当ですか?
キャセール「母の洗濯機に合わせてギターを弾くと、カーチャン、カーチャンのリズムになるんだよ」
マザーズボウ「ドラムマシンができる前は、車の中でワイパーのリズムに合わせて曲を作っていた。僕たちの最初のドラマー、ジム・マザーズボウは回路ベンダーで、電子ドラムの前身となるものを発明したんだよ」
Q:ニール・ヤングとのコラボレーションはどのように実現したのですか?
マザーズボウ「俳優のディーン・ストックウェルがオフブロードウェイの舞台の音楽を僕に依頼してきたんだ。ディーンはニールのために映画を撮っていて、彼にディーヴォを紹介したんだ」
キャセール「ニールは僕たちのセルフプロデュースのシングルを持っていた。僕たちは出会い、ニールは僕たちを気に入り、彼の映画『ヒューマン・ハイウェイ』に僕たちを誘ってくれたんだ。“Hey Hey, My My”を一緒に演奏したんだ」
マザーズボウ「ニールは僕らがマーチャンダイズを売っていることを叱ったんだ。彼はこう言った“マーチャンダイズはクールじゃない。ロックンロールの一部ではない(笑)」
Q:ジョニー・ロッテン(ジョン・ライドン)がディーヴォに参加したという話について聞かせてください?
マザーズボウ「1978年の冬、僕たちは友人の家のソファで寝ていた。ボブ・キャセールの部屋は窓が開いていて、朝には1フィートの雪に覆われていた。(ヴァージン・レコードのボス)リチャード・ブランソンから電話があって、ジャマイカで一緒にやらないかと誘われた。ボブと僕はそのホテルに行ったんだけど、そこには本当に強いマリファナが山ほどあった。リチャードは僕らが酔いつぶれるのを待って、隣の部屋にジョニー・ロッテンがいて、彼をディーヴォのヴォーカルにしたいんだと言った。僕は笑いをこらえることができず、今まで聞いた中で最もばかげた提案だと彼に言った。その後、リチャードに殺されそうになった。彼は僕たちを山の中に食事に連れて行き、その後、あまりに速く運転したため、ジープが道路から滑り落ち、木に引っかかってしまったんだ。僕たちは後部座席にいたんだけど、ボブは僕の上に降り、僕が下を見ると、それは100フィート(約30メートル)の高さだった。リチャードは狂ったように笑い始めたんだ」
Q:イギリスのトリビュートバンド「We Are Not Devo」をご覧になったことはありますか?そのようなバンドがあなたの音楽をやることについてどう思いますか?
マザーズボウ「こういうバンドを聴いていると、”ああ、こうすればよかったんだ”と思うことがあるんだよ。東京でPOLYSICSのライヴに行ったんだけど、彼らは自分たちの音楽とオマージュ的なものをやっていて、子供たちは僕たちがライヴで望んでいたような手振りや激しい動きをしていたんだ。
ステージに上がる前に、僕たちは自分たちの曲のインストゥルメンタル・ラウンジコア・ヴァージョンを演奏していたんだけど、自分たちをパロディにしていて、みんなそれを気に入ってくれたんだ。ワーナーはそれを出すことを拒否したので、自分たちでリリースして何千枚も売れたんだ」
Q:1978年の『サタデー・ナイト・ライブ』への出演(ローリング・ストーンズ「 Satisfaction」を過激に解体するパフォーマンス)は、当時15歳から30歳までのアメリカ人のほぼすべての人々の心に永久に刻み込まれています。その後の数週間で、あなた方の生活がどのように変化したかを教えてください。
マザーズボウ「オハイオ州では、トップ40のヒット曲を演奏するバンドを求めているだけで、誰も僕たちを起用してくれなかった。最初のセットが終わると、お金をもらって止めてしまうこともよくあった。だから、黄色い防護服を着て、自分たちの美学を追求する時間がたくさんあったんだ」
キャセール「僕たちは、完全に形成された状態でテレビに登場したんだ。一夜にして、小さなクラブ・バンドから、全国的な舞台で大活躍するようになったんだ」