アル・ディ・メオラ(Al Di Meola)は、
リターン・トゥ・フォーエヴァー(Return to Forever)加入の逸話を、最近行われたRick Beatoとのインタビューの中で話しています。加入の裏に、彼にとって兄貴のような存在の友人がいました
「バークリー音楽院に入る前、僕は、アイアート(モレイラ)とフローラ(プリム)とジョー・ファレルがいた、よりブラジリアン・スタイルのバンドだった頃のリターン・トゥ・フォーエヴァーの初期のファンだったんだ...。ヴィレッジ・ゲートやヴィレッジ・ヴァンガードなどで何度も観たよ。彼らがエレクトリックになったときには“すごい!”という感じだった。ビル(コナーズ)が在籍していたバンドを学生時代に見て、大好きなバンドになったんだ。
彼らはマハヴィシュヌ(オーケストラ)、ウェザー・リポートの3強の一角を占めていた。
バークレーを1学期半で辞めたとき、バリー・マイルスと一緒に仕事をすることになった。バリー・マイルスは驚異的なジャズ・ピアニストだよ。フュージョン・グループのようなものだったけど、6〜9ヶ月間、そのグループにいたあと、バークレーに戻ったんだ。バークレーにいる間に、またリターン・トゥ・フォーエヴァーを観る機会があったんだ。今度は驚いたことに、レス・ポールのアール・クルーが立っていた。オルフェウム・シアターだったと思うよ。アール・クルーは素晴らしいプレイヤーだ。でも、エレキギターは?
それで、ニュージャージーにいる友人に電話したんだ。彼は僕の兄貴みたいなものだった。彼はウッドストック時代の人みたいなんだ。いつもハイテンションなんだけど、僕の演奏をとても気に入ってくれた素晴らしい人だった。それに、彼はアマチュアのレコーディング・エンジニアでもあった。僕は彼に、アールがいるバンドを観たことを話して“いつかチックと演奏がしたいなあ”と言ったんだ。
そのあと彼は街でチックを探しだしたんだ。彼がこんなことをしているとは知らなかった...。
僕はまだ子供だった。当時は19歳だった。彼は大晦日にバリー・マイルス・カルテットと演奏した僕のテープを持っていたんだ。
その大晦日の夜、彼は...。彼は化学物質のエキスパートだった。彼は僕の飲み物にアシッドを入れたんだ。僕はトリップしてしまった。
彼がチック・コリアにテープを渡したと言ったとき、僕は“まさか、何も渡していないだろう”と言った。そのテープを後で聴いたとき、全く自分の音じゃなかったんだ。だから、“チックは他の人を雇っただろう、もうあんな演奏はしない”と思ったんだ。
そのあと、チックから電話があった。僕はバークレーにいて、自分のアパートにいた。
彼は“やあ、アルかい?”と言い、僕は“はい、誰ですか?”と言うと“チック・コリアだよ”と言うんだ。うわあ... 彼の声はコンサートを観たことがあるからなんとなく覚えてたんだ。それで、彼は“君の友達のマイクがテープを持ってきたよ。とても感動したんだ。ぜひニューヨークに来て、バンドと一緒に演奏してほしい”と言われたんだ。僕は“もちろん”と答えたよ。それで、当時付き合っていた彼女の方を向いたのを覚えている。“僕、出掛けるよ”と言うと、彼女は“どこに行くの、店に行くの?”と言うので、僕は“いや、出ていくんだ”と言ったんだ。
それから、ニュージャージーにある両親の家まで車で行った。家に着くと、母は“学校から帰って何してるの?”と言い、僕は“ママ、チック・コリアと演奏するんだ”って言った。すると父が“チック・コリアって誰だ?どこで演奏しているんだ?”と言うので、僕は“火曜の夜にカーネギーホールで演奏するんだ”と言った。そしたら父は“そんなわけないだろう! カーネギーホールで演奏するわけないだろう。さっさと出て行け! バークレーに行って、すぐにカーネギーホールを演奏できるわけないだろう!”といった。僕は“パパ、僕は本当にカーネギーホールで演奏するんだよ”と言った。説得に1時間くらいかかったよ。僕のキャリアはカーネギーホールから始まったんだ」
カーネギーホールでの初ライヴを振り返って、彼はこう語っています。
「スタンディングだったんだけど、パニックになりそうだったから、客席が見えないように譜面台を頭の高さまで上げたんだ。母が(向精神薬の)ザナックスをくれたんだ。初めてのライヴは緊張するものだから、リラックスするための薬が必要だったんだ。何歳であろうと、誰にとってもね。それから3週間のツアーで、クラブや劇場に行ったのを覚えている。それに、4つのスタジアムでも演奏したんだ」